記事・レポート

語る、つなぐ ~記憶のアンテナにふれるとき~

生と死の間(あわい)にあるもの/いとうせいこう×能楽師・安田登

更新日 : 2015年11月18日 (水)

第8章 現代人にこそ「能」を観てほしい


 
日常性が解体される面白さ

いとうせいこう: 時間という言葉、あるいはその観念や概念から離れれば、「死者」が感じられる。時間という意味では、商売人とそうでない人を見分けるにも、時間の論理でものを語っているかどうかで、判別できそうですね。

安田登: なるほど。

いとうせいこう: 資本は時間の論理で、増えたり減ったりするものです。例えば、「手元にある資産が明日は5倍になる」といったように、投資や株価、企業の営業利益というものは、時間の論理の上に成り立っています。一方、哲学者や宗教者の場合は、時間の論理でものを語ることが少ないと思います。

安田登: たしかにそうですね。私はワキ方なので舞台で鼓を打つことはないのですが、能楽師は自分の専門外のことも学ぶので、鼓も習いました。で、これがとても面白かったので、鼓をほしいと思って30代半ばの頃、鼓を買いました。鼓は太鼓と同じで、胴と革でできているのですが、革の部分は新革といって、できたばかりの革を買いました。

その際、仲介して下さった方に「この鼓は、いまは良い音が鳴りません。毎日打ち続け、50年経つと良い音が鳴ります。ただし、一度音が出れば600年は持ちますから」と言われました。単純計算すれば、85歳になってようやく良い音が鳴り始める。しかし、毎日打っていないため、150歳ぐらいまで待たなければなりません。

いとうせいこう: うわー(笑)。

安田登: ところがね、やはり確定申告をするでしょ。そうすると税金の処理上、資産に対する法定耐用年数が定められており、「鼓は10年」と言われるんです。600年使えると言われた鼓が、時間の論理に当てはめると、なぜか10年しか持たなくなる(笑)。

いとうせいこう: たしかに我々はいま、あらゆる物事を時間の論理でがんじがらめにされています。その意味でも、時間の論理から解き放たれた能の舞台は、現代人にとって貴重な場なのかもしれませんね。時間だけでなく、秩序や論理、生死の境界などからも解放された場だからこそ、それを観ることで、いやされるというか。昔の日本人もそうした感覚を求め、能を観ていたのかもしれませんね。

安田登: 能を観るのは高齢の方が多いと思われがちですが、最近は若い方も増えています。しかし、その中間の世代、最前線でバリバリ働いている30~50代は少ない。仕事が忙しいのだと思いますが、一方で平日の夜は一杯飲みに行くでしょうし、休日になれば映画や買い物にだって行くはずです。本当はこうした方にこそ、能を観に来ていただきたい。なぜ、能を観にこないのかといえば、無意識ながらも「あそこは絶対に危険だ!」と感じているからだと思います。

いとうせいこう: 「一度でも能を観たら、明日から会社に行けなくなるかもしれないぞ」と(笑)。

安田登: 日常性を解体されてしまうというか。

いとうせいこう: 表現は悪いですが、それほど“毒性”が強い。

安田登: 強いと思います。稽古まで始めたら、それこそ大変なことになると思います。

いとうせいこう: たしかに、稽古が終わって家路につく時には、頭の中身が180度ひっくり返ったような状態で街を歩いています。とは言いながらも、だからこそ僕にとって謡の稽古はとても面白く、自分にとって必要だと感じるのでしょう。


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六本木アートカレッジ 語る、つなぐ ~記憶のアンテナにふれるとき~
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650年前から続く伝統芸能「能」は、死者と生きる者の話。能をフックに、私たちが忘れかけている、日本の文化、そして死生観について語ります。