記事・レポート

語る、つなぐ ~記憶のアンテナにふれるとき~

生と死の間(あわい)にあるもの/いとうせいこう×能楽師・安田登

更新日 : 2015年10月28日 (水)

第3章 能の舞台はジャムセッション


 
序破急と渡り鳥

いとうせいこう: 能の稽古で使う謡本(うたいぼん)には、セリフとなる言葉の横に音の高低を示す様々な記号が書かれています。稽古の際、安田さんは記号の意味をロジカルに説明してくれますが、例えば、「ここは声が中なので、少し中間領域に入ります。とは言いながらも、流れによっては上の方に行きます。あるいは、下の時もあります」と言うことがある。記号がまったく意味をなしていない(笑)。

稽古でも、全員が「はい」と答えた後、声を出し始めると、それぞれ音の高低がバラバラになることもあります。あれほど法則性がないのは、なぜなのでしょう? 能の謡は集団で行いますが、舞台のたびに変化するのですか? 

安田登: 法則性の強い流儀もありますが、私のいる下掛宝生流は、演奏に合わせるよりも、謡い手の感性を活かした節回しを大切にします。そのため、あまり法則性がないのです。言うなれば、謡い手の気分、あるいは、場に強要されるような感じでしょうか。先ほど言われていたように、稽古の時も皆さん、ある意味では私の指示に強要されていますよね。

いとうせいこう: 例えば、お笑いのコントでも、会場の反応を見て「今日のお客さんは硬いな」と感じた時は、その空気を読んだ誰かが強めのギャグを飛ばす。すると、今日はこういう流れだな、と全員が理解する。また、「アイツはいま、引いている。それなら俺は前に出よう」と、芸人同士で呼吸を合わせることもあります。

安田登: それと似ていますね。

いとうせいこう: 集団ということで思い出したのが、渡り鳥の話です。一般的には、最適な時期が訪れると、迷いもなく一斉に渡りに出ると思われがちですが、専門家に聞いたところ、実際は違うそうです。季節の変わり目が近づくと、群れが上空を行ったり来たりし始める。揉み合った状態が続くうちに、渡りに出ようとするリーダーと、それを押し戻そうとするリーダーが生まれる。そして、互いに引っ張り合い、「もう行くしかない!」となった瞬間、怒とうのように渡りが始まるそうです。

その専門家は「群れというものは、基本的にそのような性質を持っている」と言っていましたが、僕は「人間社会も同じだな」と思いました。能の舞台も同じですね。

安田登: 実は、能は完全分業型の舞台で、謡と演技を担当するシテとワキ、鼓や笛などの演奏を担当する囃子方など、役割(役籍)ごとに複数の流儀があります。つまり、毎回異なる流儀の人々が集まり、1つの舞台をつくるわけです。そのため、演目名は同じでも、流儀ごとに台本や解釈は異なります。さらに、舞台に向けて一緒に練習することもない。上演数日前に1度だけ「申し合わせ」を行いますが、通常のリハーサルとはまったく異なり、「ためしに1回やってみる」という軽いものです。

いとうせいこう: それはすごい。毎回の舞台がジャムセッションのような?

安田登: まさにそうです。そのままの状態で舞台にあがるため、冒頭はお互いの出方を探り合うような混沌とした状態です。しかし、時間が経つうちにチームとしての呼吸が合い、ある種の方向性が生まれ、大団円に向かって一気に盛り上がっていく。先ほどの渡り鳥のエピソードとも似ていますね。

花は心、種は態なるべし

いとうせいこう: 先日、哲学者の千葉雅也さんがTwitterに次のようなことを書いていました。20世紀に活躍したフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの話題の中で、「互いに理解し合うことの必要性は別として、理解し合わなくても、話し合うことにより結果が出る場合がある。理解よりも、結果が有意であることのほうが大切なのだ」とありました。

能の舞台も、それと似ています。例えば、学校で行う演劇は、最初に作品のテーマについて全員で相談し、多数決で結論を決めてから稽古が始まる。理解がなければ良い芝居にはならない、という考えです。しかし、能の場合、そうした流れとはまったく異なるわけですね。

安田登: 世阿弥の『風姿花伝』には「花は心、種は態なるべし」とあります。態とは技のこと、花の解釈は難しいのですが、人々が感じる素晴らしさや感動とも言えるでしょう。現代の演劇は、作品のテーマや作者の思いなどを「種」と考え、最初にそれをつかみ、演技を高めていこうとします。世阿弥の言葉は、それと真逆です。稽古を積み重ねることで技(種)を育み、極めていく。そうすれば、自ずと花(心)は咲く、という考え方です。

例えば、メソッド演技などでは「悲しい演技をする時は、過去の悲しかった出来事を想像すると涙が出る」と言います。共感することで思いを理解する。ところが、能の主人公は精霊や亡霊など異世界の住人ばかり。亡霊になったことのある人などいないでしょう(笑)。つまり、登場人物の思いを理解できないのです。

したがって、数百年前から脈々と語り継がれてきた「型」に頼るしかない。私にとっての型とは、作品にまつわる様々な要素が「圧縮」されたものであり、能を演じるとは、圧縮されたものを解凍する行為だと感じています。解凍するには、徹底的に技を磨き、型を身につけなければならない。そして、舞台で型を解凍できれば、数百年にわたり圧縮されたものが自然とあふれ出す。そのようなイメージを持っています。


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六本木アートカレッジ 語る、つなぐ ~記憶のアンテナにふれるとき~
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650年前から続く伝統芸能「能」は、死者と生きる者の話。能をフックに、私たちが忘れかけている、日本の文化、そして死生観について語ります。