記事・レポート

「政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年」

BIZセミナーその他
更新日 : 2008年10月06日 (月)

第11章 フィールドワークで、日本の政治家が代議士になるまでを追う

ジェラルド・カーティスさん

ジェラルド・カーティス: 博士論文のために、私は大分県に行きました。最初は吉田茂の研究か、日米関係のことをやろうと思ったのですが、ある日、コロンビア大学で日本人の友だちと話をしたら、ちょうどその夏、日本に戻ってお父さんの友だちであった国会議員の選挙キャンペーンを手伝った話をしてくれました。後援会があったり、中選挙区制度で同じ政党の人たちが争っていると教えてくれました。

そこで、ひらめいたんです。図書館で吉田さんの勉強をするよりも、どこか地方に行って、日本の政治家がどういうふうに代議士になるのか調べよう。そうしたら日本の草の根の民主主義が分かるのではないかと思ったのです。すでに奨学金はとっていたので、モーリー先生のところに行って、「テーマを変えたい。戦後の日米関係ではなくて、今の日本の選挙運動のことを勉強したい」と言ったところ、「そんなに興奮して言うほどパッションがあるなら、その方がいいだろう」ということで、許可をもらいました。 

日本に着いたとき、モーリー先生の学生、つまり私の先輩でセイヤーさんという人が、当時のライシャワー大使の報道官でした。「彼に連絡しなさい」と言われて電話をして、「こういう研究をしたい」と言ったら、「俺の友だちが、ある代議士の秘書をやっている。紹介するから今から行こう」となって、それで中曽根康弘さんの事務所を訪ねました。そのとき中曽根さんは47歳ぐらい。河野一郎さんが亡くなったすぐ後で、派閥の親分になっていました。中曽根さんの秘書の小林克己さんという人と会って話をしたら、「ちょっと待ってください」と言った後、しばらく席を外されました。戻ってきたら、「どうぞ」と言って、中曽根さんの部屋に連れて行ってくれました。

中曽根さんに話したら、「それは面白い。じゃあ誰かに紹介しよう」と、いろいろな人の名前を挙げたのですが、「青森の人はいい人だけど、あそこは、君の日本語の能力では無理だ。あの方言は難しい。すると、鹿児島もだめだ。大分県に、まだ自分の派閥に入っていないけれど、そのうち入る佐藤文生さん、文ちゃんというのがいる。この前の選挙で落選したが、多分今度は大丈夫だろう」ということで、その場で佐藤文生さんに電話をしてくださいました。

「今、若いアメリカの青年が来ていて、日本の政治の勉強をしたいというので、ちょっと面倒を見てくれないか」と。佐藤さんは、派閥の親分に対してNo.とは言えなくて、「はい」と答えたので、私は大分に行くことになったのです。佐藤さんはとてもいい方で、親切で、何でも見せてくれたので、本当にラッキーでした。