記事・レポート
カフェブレイク・ブックトーク「旅先で気になる建物たち」
更新日 : 2009年04月03日
(金)
第3章 西洋で建物や街並みに魅せられた文人たち
人文・社会科学分野の高質な評論誌「環」(かん)を出している藤原書店から出された『パリ・日本人の心象地図』(和田博文他著、04年藤原書店刊)と『言語都市・パリ』(和田博文他著、02年藤原書店刊)の2冊は、かつて日本での世界観形成に影響を与えたヨーロッパの大都市、とりわけパリに対する日本人のイメージの深層を明らかにしようとしています。
それらの本はいずれも、19世紀中頃からおよそ百年間にその地を訪れ、そして滞在した明治・大正・昭和初期の多くの知識人(文人、画家、音楽家、政治家、社会活動家など)の作品や随筆や書簡などを克明に調べています。誰もが外国を旅行し、画像情報が同期的に飛び交っている今、誰もが居ながらにして世界を感じとることができますが、かつてはそれら文人たちの作品が一般の人びとに世界を伝えるメディアだったのです。
そうした人びとの中に、建物や街並みに惹かれた人たちが少なからずいます。
それらの本はいずれも、19世紀中頃からおよそ百年間にその地を訪れ、そして滞在した明治・大正・昭和初期の多くの知識人(文人、画家、音楽家、政治家、社会活動家など)の作品や随筆や書簡などを克明に調べています。誰もが外国を旅行し、画像情報が同期的に飛び交っている今、誰もが居ながらにして世界を感じとることができますが、かつてはそれら文人たちの作品が一般の人びとに世界を伝えるメディアだったのです。
そうした人びとの中に、建物や街並みに惹かれた人たちが少なからずいます。
●荷風は……
まず情景描写に優れている荷風は、『ふらんす物語』(1908年)でこんなことを書いています。
「大概の人は画で知って居よう。犯し難い尊厳の中にも云われぬ優しみを失わぬノートルダムの寺院が立つ、シテーの島を横切り、セーヌ河を越えて、爪先上がり、サンミッシェルの大通りを上がって行けば、其処が乃ち、詩人や画家や書生の別天地、カルチェーラタンである。この大通りを中央にして、右手にリュキザンブルグ公園、左手にパンテオンの円頂閣が見える。医科大学を裏手に控へた表通りの、サンルイの学校と相対しては、哲人オーギュスト・コントの石像を前にした文科大学、その裏に法科大学が隠れて居り、ルイ・ル・グランの学校を下りれば、其の名から学校街と呼ばれた通りに、コレーヂ・ド・フランスと工科大学がある。其の他、鉱山科、薬剤科を初めとしてありとあらゆる専門の学校は、尽く此の界隈に、何れも自由、平等、博愛の三字を冠に、鼠色した石の建物を聳(「じ」と読み、そびえ立っていることを意味している)して居る。」
この街並みガイドのような風景は、通称カルチュラタン(パリ5区)の当時の様子ですが、あまり広くもない通りを挟んで林立している鼠色した石の建物群が荷風には気に掛かったように考えられます。
●木下杢太郎は……
『食後の唄』(1919年)など南蛮情緒的キリシタン趣味で、耽美享楽的な詩を書いた木下杢太郎は、1922年のパリ滞在に際して、こんなことを書いています。
「わたくしは始めこの家〔滞在したホテル〕の、サン・シュルピス寺院の側面を見る前面の部屋を予約して置いたのであるが、其窓から始終広場の生活を見てゐるよりも、唯鐘の音で戸外の朝夕を想像する方を好ましくおもって、荒廃した中庭を望む方の、そしてやや広い室と代えたのである。」
杢太郎は寺院の裏側の寂れた佇まいが気になったようです。
●詩人竹内勝太郎は……
マラルメやヴォ・ヴォアールに傾倒した詩人竹内勝太郎は、1928年にパリに滞在した当初、
「……老仏蘭西学者を訪ねようとして、セーヌを目あてにぶらぶらと町を横切った時、突然全く思いがけなく、ノオトル・ダムの偉大な建築が目の前に現れて私を一瞬棒立ちにさせてしまった。その時の喜ばしい心の戦慄。永い間別れてゐた母親を遠くから見つけ出してしまった時に感ずるであろうと思はれるような限りない幸福、涙に輝いた歓喜……」(『現代仏蘭西の四つの顔』1930年)を感じていました。
しかしその後には、
「学的な或は芸術的な研究と観察に疲れたとき、イール・ド・シティを中心としたあのセーヌの畔のヴィユ・パリの古色蒼然とした情景を味ふことは、私にとって何よりも滋味の深い楽しみだった。」と言いながら、サン・マルタンの横丁をよく歩き回ったようです。
因みにこの辺りには16世紀以降の建物が全くなく、どの家も屋根は傾き、壁は落ちて寂漠とした佇まいであったといわれています。
まず情景描写に優れている荷風は、『ふらんす物語』(1908年)でこんなことを書いています。
「大概の人は画で知って居よう。犯し難い尊厳の中にも云われぬ優しみを失わぬノートルダムの寺院が立つ、シテーの島を横切り、セーヌ河を越えて、爪先上がり、サンミッシェルの大通りを上がって行けば、其処が乃ち、詩人や画家や書生の別天地、カルチェーラタンである。この大通りを中央にして、右手にリュキザンブルグ公園、左手にパンテオンの円頂閣が見える。医科大学を裏手に控へた表通りの、サンルイの学校と相対しては、哲人オーギュスト・コントの石像を前にした文科大学、その裏に法科大学が隠れて居り、ルイ・ル・グランの学校を下りれば、其の名から学校街と呼ばれた通りに、コレーヂ・ド・フランスと工科大学がある。其の他、鉱山科、薬剤科を初めとしてありとあらゆる専門の学校は、尽く此の界隈に、何れも自由、平等、博愛の三字を冠に、鼠色した石の建物を聳(「じ」と読み、そびえ立っていることを意味している)して居る。」
この街並みガイドのような風景は、通称カルチュラタン(パリ5区)の当時の様子ですが、あまり広くもない通りを挟んで林立している鼠色した石の建物群が荷風には気に掛かったように考えられます。
●木下杢太郎は……
『食後の唄』(1919年)など南蛮情緒的キリシタン趣味で、耽美享楽的な詩を書いた木下杢太郎は、1922年のパリ滞在に際して、こんなことを書いています。
「わたくしは始めこの家〔滞在したホテル〕の、サン・シュルピス寺院の側面を見る前面の部屋を予約して置いたのであるが、其窓から始終広場の生活を見てゐるよりも、唯鐘の音で戸外の朝夕を想像する方を好ましくおもって、荒廃した中庭を望む方の、そしてやや広い室と代えたのである。」
杢太郎は寺院の裏側の寂れた佇まいが気になったようです。
●詩人竹内勝太郎は……
マラルメやヴォ・ヴォアールに傾倒した詩人竹内勝太郎は、1928年にパリに滞在した当初、
「……老仏蘭西学者を訪ねようとして、セーヌを目あてにぶらぶらと町を横切った時、突然全く思いがけなく、ノオトル・ダムの偉大な建築が目の前に現れて私を一瞬棒立ちにさせてしまった。その時の喜ばしい心の戦慄。永い間別れてゐた母親を遠くから見つけ出してしまった時に感ずるであろうと思はれるような限りない幸福、涙に輝いた歓喜……」(『現代仏蘭西の四つの顔』1930年)を感じていました。
しかしその後には、
「学的な或は芸術的な研究と観察に疲れたとき、イール・ド・シティを中心としたあのセーヌの畔のヴィユ・パリの古色蒼然とした情景を味ふことは、私にとって何よりも滋味の深い楽しみだった。」と言いながら、サン・マルタンの横丁をよく歩き回ったようです。
因みにこの辺りには16世紀以降の建物が全くなく、どの家も屋根は傾き、壁は落ちて寂漠とした佇まいであったといわれています。
●古い建物に惹かれるのは日本の文人たちだけではない
古い建物に惹かれたのは日本の文人たちだけではありません。外国の文人たちが他の外国の都市に何を感じ、自分の未知なる部分を含めてそこで何を発見したかを問うている最近の本に、『パリの異邦人』(鹿島茂著、08年中央公論新社刊)があります。
この本はパリに魅せられ、愛憎を深めたリルケ、ヘミングウェイ、オーウェルなど外国の著名な作家たちとその地との精神的相克を考察しています。その中で、荷風他の日本人作家たちも気に掛けた建物の佇まいへの感傷が読みとれます。リルケにしてもヘミングウェイにしてもその地の陰の部分に強く引かれており、明示的ではないのですが、情景を構成する重要な要素である建物、とりわけ街の陰にある荒廃した建物に優しい眼差しを注いでいます。
この本はパリに魅せられ、愛憎を深めたリルケ、ヘミングウェイ、オーウェルなど外国の著名な作家たちとその地との精神的相克を考察しています。その中で、荷風他の日本人作家たちも気に掛けた建物の佇まいへの感傷が読みとれます。リルケにしてもヘミングウェイにしてもその地の陰の部分に強く引かれており、明示的ではないのですが、情景を構成する重要な要素である建物、とりわけ街の陰にある荒廃した建物に優しい眼差しを注いでいます。
カフェブレイク・ブックトーク「旅先で気になる建物たち」 インデックス
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第1章 建物は何のために必要か
2009年03月18日 (水)
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第2章 多くの人びとが旅先で、それぞれ気になる建物に出会っている
2009年03月26日 (木)
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第3章 西洋で建物や街並みに魅せられた文人たち
2009年04月03日 (金)
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第4章 ハレの街で私が気になった建物は、アール・ヌーヴォー様式
2009年04月22日 (水)
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第5章 国内の旅でも気になる建物が見つける機会が多い
2009年05月12日 (火)
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第6章 日本の‘モダン’建物
2009年05月29日 (金)
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第7章 最後に私の生家のこと
2009年06月18日 (木)
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