記事・レポート

カフェブレイク・ブックトーク「旅先で気になる建物たち」

更新日 : 2009年06月18日 (木)

第7章 最後に私の生家のこと



ところでここに『日本の色と街並』(ディックカラー&デザイン編、06年クレオ刊)という本があります。この本は本来、建物の外装だけでなく、内装、調度品、小物雑貨などなど日本の伝統的な色彩、あるいは色使いを紹介しているのですが、その中で私の生家の一部が写真で紹介されています。

私的にわたりまことにおそれいります。今はこの写真のように小綺麗に再生されていますが、ひと頃は「幽霊屋敷」のようでした。生家の澁川問屋は、800坪の敷地に400坪余りの店舗・倉庫蔵・家屋敷で、家族約20名、従業員および女衆30名、会わせて約50名で塩干物を中心として海産物や干鰯などの肥料や冷凍冷蔵庫業などを手広く商っていました。

しかし私が生まれた頃から徐々に衰えてしまいました。その理由は主に外的なもので、第一に太平洋戦争です。徐々に拡大していった戦争のため家族の者はもとより、従業員は出兵し、最後には老店員が2、3人残ったのみ。そして食料統制が始まり、自由な商いができなくなってしまいました。

戦後は戦後で海産物市場の合理化・近代化のため市営市場ができ、問屋店舗を使っての家業ができなくなり、間口20間の店は40枚の板戸を閉ざしたままの状態になってしまったのです。そしてその状態は30年ほど続きました。

問屋を知っている取引の魚屋や近隣の人びとは、もちろん建物としての謂われ、すなわち店舗・倉庫蔵・家屋敷が1880年代から造成され90年代には完成して、家業がその地で大いに栄えたことを知っていました。しかし、板戸が閉じられたままの店舗を通りすがりに見た旅人たちの多くは、その寂寞とした様子に戸惑い、何かしらの感情を覚えたものと推測されます。事実そういう感想が述べられていたことを何度か仄聞し、淋しい想いに陥ったことが2度、3度ありました。

問屋は今から20年ほど前に、新しい家業を立てて再生しました。澁川問屋を創設した初代から数えて4代目に当たる者(私の又従弟)が、かつて問屋で年中行事や祝い事、あるいは取引先の接待の時に供した大正時代の料理を再現し、それを観光客や地域の人たちに供する郷土料理店と宿屋を始めたのです。この写真は、今家業での店頭の正月の風情をよく映しています。その様子を通じて私は、私が子どもの頃の問屋の正月の風情を思い出します。

それを使う目的を変えながら建物を再生する例は少なからずありますが、私がハレで見つけたあの建物もそうであってほしいと願うばかりです。