記事・レポート

66ブッククラブ第1回

『ニュー・ダーク・エイジ』を読む

更新日 : 2019年07月16日 (火)

第3章 空の眺め方
~『ニュー・ダーク・エイジ』からの随想~

アカデミーヒルズとコンテンツレーベル「黒鳥社」のコラボレーションによって始まった、新しいタイプの読書会「66ブッククラブ」の第1回が4月4日に、アカデミーヒルズで開催された。第1回目として取り上げたのはジェームズ・ブライドルによる問題作『ニュー・ダーク・エイジ』。デジタルネットワークに覆い尽くされた世界に生きる、わたしたち人間の困難を描いた本書は、さまざまな論点・コンテクストが複雑に錯綜した一冊だ。この1冊を導入として、監訳者の久保田晃弘先生、そしてゲスト読者としてデザインシンカーの池田純一さんを招き、黒鳥社コンテンツディレクター若林恵氏のファシリテートのもと参加者のみなさんと大いに議論をしつつ、『ニュー・ダーク・エイジ』から広がる、本の地図を描いてみた。

TEXT BY KEI WAKABAYASHI
PHOTOGRAPH BY YURI MANABE

ジェームス・ブライドルの『ニュー・ダーク・エイジ』は、複雑にネットワーク化され、もはや誰もその全体像を把握できなくなったデジタルテクノロジーの脅威を、気候変動というものと強く結びつけて論じているのが面白い。

そもそもコンピュータやデジタルネットワークをつくりあげた計算論的思考は、気象予測、天気を計測し、モデル化し、それを予測することによって、あわよくば天気そのものをコントロールしたいという欲望から生まれ出たものだという。そして、その欲望の追求こそが地球規模の気候変動を促していくというパラドクスを生み出したという指摘は、なるほどと頷かされる。科学技術の暴走と気候変動との見えざる連関。それがいま憂慮すべき大問題を引き起こしている。憂慮なんて悠長なことをいっている場合じゃない。その問題に対して人間にはどうやらもはや打つ手がない。打つ手がないどころか、問題がデカすぎてそれを把握し、考えることすらできない。新しい暗黒時代は、人類にとっての未曾有の危機だ。

という著者のメッセージは、アタマではわかる。わかるのだけれども、読み進めていくうちに、いまさらながらハタと気づいたのは、「気候変動の脅威」というものに、自分がまったくぴんと来ていないということだった。

もちろん世界的にそれが重大事とみなされているのは、よくわかっているつもりだ。これまでとは明らかに異なる気象の動向はたしかに異常と呼ぶべきものだという実感もないわけではない。けれども、どこかで、「空ってそういうものだろうさ」と呑気に思っている自分がいることに気がつく。逆を言えば、なんで西欧はそんなに空や天気というものに対してそこまでオブセッションを燃やすのだろうという疑問が湧いてきてしまう。


若林 恵(黒鳥社 コンテンツディレクター)


『気象を操作したいと願った人間の歴史』という本は、環境改変への執着がやがて軍事技術へと転用され、50年代から70年代にかけて、朝鮮半島やヴェトナムやラオス、カンボジアなどで展開された「人工降雨作戦」などへと発展していった経緯などを詳細に明かしている。コンピュターの父として名高いフォン・ノイマンが1955年に執筆した論文が本書で引用されているが、「人類はテクノロジーより長く生き残れるか」と題された文章は、『ニュー・ダーク・エイジ』と響きあうようで興味深い。

「フォン・ノイマンは気候制御を完全に『常軌を逸した』産業と呼んだ。(中略)地球の熱収支や大気の大循環に手を加えると、『核戦争やこれまで起きたあらゆる戦争の脅威よりも徹底的なやり方で、個々の国の事情をあらゆる他国の事情と混ぜ合わせることになる』。(中略)フォン・ノイマンは気象や制御の二面性を明らかにした。最も大事な問題は、『人間に何ができるか』ではなく『人間は何をすべきか』だった。(中略)最終的な解決策を求めながらも見つけられないまま、彼はこう述べている。生き延びる見込みを最大限に増す鍵は、忍耐、柔軟性、知性、謙虚さ、熱意、監視、犠牲、そして十分な幸運であると」

60年以上経ったいま、その警告はますます深刻さをましている。「気候」をめぐる危機は、国際的にもトッププライオリティとなっている。2018年の国際経済フォーラムでも、「極端気象」と「気候変動」こそが世界にとって最大のリスクであることが確認され、報告されている。それを受けて、政府筋のある知人は、国際舞台における「気候」をめぐる議論のあり方が明らかに変化していることを語っていた。これまでの議論は、主に「気候変動を制御するために何ができるのか」という論点が主流だったが、2018年を境にして、議論は大きく「それはもはや制御ができないものとしたとして、それがもたらす災害なり破局にいかに対応するか」という方向へとシフトしたという。フォン・ノイマンが語った、「何ができるか」から「何をすべきか」という転換が、ここでも起きていたのかもしれない。



そうした転換を促す上で、キャス・サンスティンが『最悪のシナリオ』という本のなかで語った考え方は、重要な後押しとなっているのかもしれない。本は、こんな書き出しではじまる。

「人間や政府は、最悪のシナリオ(worst-case scenarios)にどう向き合っているのだろう。無視するのか、それとも過剰に重視するのか。実際にどうしているかは別として、低確率の大惨事のリスクにはどう対処すべきか」

「すべき」に傍点が振ってあるのがミソだ。「何ができるのか」ではなく「何をすべきか」なのだ。サンスティンは、本書の目指す先を、こう記している。

「さまざまな壊滅的損害の予防原則を検討し、それらをどうしたら擁護できるかを示し、修正していくことである。最初の推定として、最悪のシナリオの発生確率と重大性の両方を特定したい。また、予防措置の期待値を予想費用と比較したい。期待値と予想費用は金銭的価値の観点からではなく幸福の観点から評価すべきである。大事なのは、金銭的な利得や損失の大きさではなく、生活が実際にどのような影響を受けるかなのだ」

 サンスティンは費用便益分析という、ブライドルがその限界を指摘した計算論的なリスク評価のプロトコルを丁寧に紹介しながら、わたしたちが、最悪のシナリオの出来に備えて何をすべきか、何をどう考慮すべきかを慎重に説いていく。それが果たしてどのような効果を上げうるのかは未知数であるとしても、不確実性に満ちた世界にあって、ただ指を加えて破滅を待っているわけにはいかない人類が、現実的な処方として何をしうるのか、すべきなのかを考えさせてくれる。

それほどまでに気候変動は重大なイシューであるにも関わらず、それにしてもなぜか自分にはどうしてもピンとこない、という感覚は抜き難い。そんなことを、池田純一さんに漏らすと、こんな答えが帰ってきた。

「それは、ノアの箱舟があるからでしょう」




言われてみれば、その物語のなかの雨と洪水は世界を破滅にいたらせる、それはそれは恐ろしいものなはずなのだが、ノアと世界の破局の物語を、趣旨がいまひとつわからない教訓話のようなものとしてしか読まなかった身としては、その恐ろしさがいまひとつ真に迫ってこない。けれども、それが西洋ではいまなお重要なモチーフになっていることは、グリーンランドのズヴァールヴァルにある種子貯蔵庫が、ずばり「箱舟」と呼ばれていることからも伺うことができる。著者のブライドルも『ニュー・ダーク・エイジ』のなかで、その箱舟の重要性を熱を込めて語っている。

それで思い出したのは、だいぶ昔に熊野の熊野本宮大社を訪ねたときのことだ。

ともに旅した民俗学者の畑中章宏さんがそこで教えてくれたのは、熊野本宮大社は、現在建っているところにあったのではなく、3つの川の合流地点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中州に建っていたということだった。

中洲に建っているので、当然大雨で増水・洪水が起きるたびに流されてしまう。けれども、そうやって数年か数十年に一度流され、そのたびに再建することが、ちょうど伊勢神宮における遷宮と同じ役割を果たすことになっていたらしい。大雨や洪水はたしかにカタストロフにはちがいない。けれども、それは破滅であると同時に、再生のための禊でもある。そこでは時間は直線的に進むのではなく、ぐるぐると円を描くようにまわる。空や雲がもたらす破壊は、いわば織り込みずみ。災害列島と言われるこの島々に代々暮らしてきた人たちにしてみれば、巨大災害は避けられないものとして共同体の時間のサイクルのなかにあらかじめ埋めこまざるを得なかったにちがいない。

そうした時間感覚なりが自分のなかにも受け継がれて、それが気候変動の脅威に対する望ましい理解を阻んでいるのかどうかはうっかり即断はできないが、考えれば考えるほど「空を制御しよう」などという大それた欲求は出てきそうにない。むしろ、空を見上げるとそこに自分の心情なぞが映し出されているのを見てしまったりするのだから、同じ空を見ながらもこうまで見方が違うものかと愕然とする。

ブライドルの本について議論をしていると、西洋人が抱いてきた空というものへの執着に、なんだか不気味なものすら感じてきてしまう。先に紹介した『気象を操作したいと願った人間の歴史』の原題は「Fixing the Sky=空を直す」だ。帯には「行き過ぎ、うぬぼれ、自己欺瞞...」とある。空を直すべく積み上げられた科学技術は、人間の思いあがりの象徴で、それが神の怒りに触れ、手に負えない天候をもって仕置きを地球にもたらすという線に沿って科学技術の進展を理解するのであれば、近現代の西欧世界は、そのままノアの物語をいまなお実地で生きているということになる。

世界は不可知なものにますますなっていく、と『ニュー・ダーク・エイジ』は言う。それはその通りだろう。けれども、世界は少なくとも60年前からしてすでに、不可知なものとしてその不気味な姿を表わしつつあったのだ。わたしたちは、その危機に対して、これまでとは違うやり方で向き合う必要があることはもはや間違いがない。テクノロジーがもたらした危機をテクノロジーをもってオーバーライトしようという発想はもういい加減捨てたほうがよいのはわかった。とはいえ、じゃあどうしたらいいのか、明確な答えは、やはり見当たらない。60年前にフォン・ノイマンが提起した問いは、重たい雨雲のように、暗さを増しながら空を覆い尽くしている。




『気象を操作したいと願った人間の歴史』
ジェイムズ・ロジャー・フレミング (著), 鬼澤 忍 (翻訳)





 

『最悪のシナリオー巨大リスクにどこまで備えるのか』
キャス・サンスティーン (著), 齊藤 誠 (その他), 田沢 恭子 (翻訳)

『我々は 人間 なのか? - デザインと人間をめぐる考古学的覚書き』
ビアトリス・コロミーナ (著), マーク・ウィグリー (著), 牧尾晴喜 (翻訳)

<66ブッククラブ 第3回>

66ブッククラブ第1回 インデックス