記事・レポート

研究者たちの往復書簡 ~未来像の更新~

更新日 : 2020年07月06日 (月)

第1回:哲学×宇宙生物学「ウィルスの生命観を哲学的に考える」


感染症の拡大や気候変動など、世界が同時に同じ脅威に直面する今、領域を横断してダイナミックに議論し、新しい知性を紡ぎ出す力が求められています。
かつて、リーダーや研究者たちは頻繁に文を送り合い、情報交換を行い、交流を深めてきました。

本シリーズ「研究者たちの往復書簡」では、アカデミーヒルズ発刊書籍『人は明日どう生きるのかー未来像の更新』をきっかけに、その著者たちが、分野を越えて意見や質問を取り交わします。


◆書籍『人は明日どう生きるのかー未来像の更新』とは

都市とライフスタイルの未来を議論する国際会議「Innovative City Forum 2019(ICF)」における議論を、南條史生氏と森美術館、そして27名の登壇者と共に発刊した論集。「都市と建築の新陳代謝」「ライフスタイルと身体の拡張」「資本主義と幸福の変容」という3つのテーマで多彩な議論を収録。

 

 研究者たちの往復書簡
 第1回 哲学×宇宙生物学:ウィルスの生命観を哲学的に考える
第1回は、哲学者の荒谷大輔さんと合成生物学・宇宙生物学者の藤島皓介さんです。
書籍『人は明日どう生きるのかー未来像の更新』のお互いの執筆原稿を読み、書簡を送り合います。
 
哲学
荒谷大輔さん
哲学者、江戸川大学基礎・教養教育センター教授・センター長
宇宙生物学
藤島皓介さん
宇宙生物学・合成生物学、東京工業大学 地球生命研究所
 
< 往復書簡の流れ >
vol.1   哲学 → 宇宙生物学 【 荒谷さんからの書簡 】
vol.2 宇宙生物学 → 哲学 【 藤島さんからの書簡 】
vol.3 哲学と宇宙生物学の交差点
 
vol.1 【荒谷さんからの書簡 】
今回は、哲学者の荒谷さんから藤島さんへの書簡です。
荒谷さんは、「生命の起源」を探求される宇宙生物学者の藤島さんの原稿を読んで、何を感じ、どのような疑問をもったのでしょうか?

藤島さん執筆 『人は明日どう生きるのかー未来像の更新』P118~ [要約]
藤島皓介さんは、宇宙生物学の観点から「生命の定義は非常に難しい」と語ります。例えば、別の細胞に寄生しないと自己増幅することができないウィルスは果たして生きていると言えるのかどうか?また、水が無くなると代謝が止まり、また水が加わると働き始めるような、生と死を行き来する多細胞生物の存在を挙げ、「生命と非生命の境界の曖昧さ」を語ります。そして、科学技術により遺伝子レベルで生命をデザインすることが可能になりつつある今、生命の可能性について本書で語って頂きました。


 

荒谷大輔さんからの書簡
こんにちは、哲学者の荒谷大輔です。『人は明日どう生きるのか』では、資本主義が幸福をもたらすという考え方の「時代錯誤感」といいますか、その歴史的な限定性について議論した上で、今日の私たちの幸せとは何かを提案しました。今回、アフターコロナを見据えたWEB読書会ということで、他の寄稿者の方々とお話できるというので楽しみにしています。
 
コロナに直面して人が気づいたことは、いろいろあると思うのですが、人間が生物であることをあらためて思い知らされたということがひとつ大きいのではないかと思っています。天然痘や結核が問題になっていた時代には、死と隣り合わせになった日常が社会の中に存在していました。結核は大正期には死因の第一位を占める病気でしたので、知り合いが実際に結核でなくなっていくほどの距離感だったと思われます。文学作品などで主題にされることも多く、ひとが社会において「死」というものを考えるひとつの機会になっていました。
 
しかし、天然痘が根絶し、結核にワクチンが開発されると、感染症の時代は過ぎ去ったと言われるようになります。医学においても主要な関心は生活習慣病の治療へ移っていき、「死」は生活習慣の改善の問題、つまりは人間の側で自分の生活をどうコントロールするかという問題へと変わっていきました。そこでは「死」は、外側から急にやってくるものではなく、ある程度まで生活によって制御可能なものと見なされるようになったのです。
 
今回の新型コロナ・ウィルスの感染は、「死」が生活においてコントロールされるものではなく、生活をコントロールするものであることをあらためて示しました。私たちの日常が「死」と隣り合わせであることは、考えてみれば当たり前のことではあるのですが、社会的に強くは意識されないものとなっていました。もちろん、今回のコロナ・ウィルスは罹患したら必ず死を意識するものでもないので、捉え方については個人差があろうとは思います。しかし、社会という枠組みで考えると「死」は意識されざるをえません。誰かが死ぬかもしれないという状況のもとで「不要不急」の活動を制限するということが、人が「社会的な生」を営むために必要なことと見なされました。
 
こうして「命」か「経済」かという、この間よく言われた二者択一の問題が発生しました。あらためて言うまでもないですが、活発な経済活動によってウィルスが広まっていけば人命が危うくなるというので、経済の前にまずは人の命が大切と言われ、日本では完全な封鎖ではありませんでしたが、緊急事態宣言が発令され、いわゆる「ロックダウン」の状態になりました。これに対して、経済活動も生活の基盤をなしているので滞れば人の命に関わるという議論もなされましたが、これまでの議論の大勢はやはり「命」の方をまずは重視する方向だったかと見ています。少なくとも「命」の安全が保証されるまでは、一定程度、経済活動を控えるのはやむをえないという考え方で現状、世の中が動いているように思います。
 
しかし、せっかくの機会ですので、コロナが収束してまた同様の経済活動を展開するのを待つというのではなく、コロナによってあらためて気づかされたことに焦点をあてて考えてみたいと思います。私たちが「死」を意識せず生活できる日がまたやってくる可能性もありますが、それでも実際に私たちが生物として「死」と隣り合わせで生きているということには変わりはありません。私たちが何のために経済活動をするのか、守るべき「命」というのは実際どのようなものなのかという問題は、この時期に限定された「感性」でのみ問題になることではなく、普遍的なテーマだと思われます。それはまた『人は明日どう生きるのか』で問われたことでもありました。



 
クマムシ
さて、こうした問題意識で宇宙生物学(アストロバイオロジー)を研究されている藤島皓介さんにおうかがいしたいのですが、藤島さんは『人は明日どう生きるのか』に寄稿された原稿の中で、生命と生命でないものの境界は、実は曖昧だということを言われています。クマムシやネムリユスリカなどの生物は、身体の中の水分が抜けると代謝が停止して、死んでいるのと区別ができない状態(熱力学的に平衡な状態)になります。「生きている」ということを、宇宙全体の自然の傾向(熱力学的な平衡を志向する方向)に抗して、自己を組織化することと定義すると、クマムシなどの仮死状態は「生きている」とは言えない状態にあると言われます。これは混沌(=エントロピーが増大し熱力学的に平衡な状態へと移行する方向)から秩序が形成されることを「生命」と捉えて、その生化学的な構造を探求したイリヤ・プリコジン的な「生命」の定義を採った場合のことですね。
 
また、コロナもそうですが、ウィルスなどは、別な細胞に寄生しないと自己を増殖させることもできないので、生命を自己増殖するものと定義すれば、ウィルスは果たして「生きている」といえるかどうかわからなくなるというお話をされていたかと思います。ウィルスは自分の遺伝子情報を自分で複製することはできないわけですね。
 
そうすると問題になるのは、あるいは哲学者として気になることは、といった方がいいかもしれませんが、「生命」の定義になるかと思います。とくに、後者の「自己増殖」を考える場合、「自己」と呼ばれるものが「遺伝子情報」であるというところも問題になりうると思います。つまり、少なくとも私たちが日常使っている言葉のレベルでは、生きているとか死んでいるということは、それぞれの「個体」について語っていて、遺伝子のことを言っているわけではないということですね。子どもを作れば自分の遺伝子情報は複製されるわけですが、じゃあ「家系」をつないでいけば「個体」が死んでも「自己」は複製され続けていると考えるかといえば、そうでもないでしょう。今日でもなお「家」というものを重んじる人はいるかもしれませんが、伝統的な「家」の価値観と遺伝子情報は必ずしも重なるものでもありません。
 
哲学の文脈でいうと「生」というのは、二種類に分けて議論される傾向があります。個々のものが特定の形態をもって生きることを「ビオス」といい、特定の形態とか様式とは無関係に単に生きることが「ゾーエー」という言葉で語られます。ビオスはバイオロジー(生物学)の語源、ゾーエーは「動物園(zoo)」のもとになった言葉ですね。この区別を使うと「生命」の定義を巡る問題をもう少し立ち入って議論できるように思われます。つまり、「ビオス」を「個体」として特定のかたちを維持・再生産すること、「ゾーエー」をそうした「個体」の枠組みを外した再生産を示す言葉として理解してみようということです。
 
クマムシは代謝機能を停止しても特定の形態を維持し続ける個体なので「ビオス」として生きているといえますが、ウィルスは遺伝子情報の複製過程で突然変異すら引き起こしながら増殖していくのですから「ビオス」という概念は当てはまりません。遺伝子の複製は、「ゾーエー」としてのみ生きているというべきで、生殖の中で遺伝子をつないでいく人間は、時々で別な「ビオス」を形成しながら「ゾーエー」として再生産されるということができるでしょう。
 
こうすると例えば、藤島さんがおっしゃられる「セントラルドグマ」の問題も、ゾーエーの中でビオスが生まれることと言い換えることができるように思います。「設計図」としての遺伝子情報が実際の個体として作られていく仕組みが「セントラルドグマ」だといわれますが、これは、遺伝子複製というゾーエーの次元の「生」から個体としてのビオスがいかに生まれるかという問題として言い換えられます。そうすると例えば「ゾーエー」としてのコロナに脅かされる「死」を考えたとき「死」と対立するのは「ビオス」であって「ゾーエー」ではないということになるでしょう。それは「生命」を考える上で重要な視点になりうると思われます。つまり、「ビオス」の観点でいえばコロナははじめから死んでいるのであって、「死」が私たちの「生命=ビオス」に対立していることになるかと思います。反対に「ゾーエー」という観点からすると人間の「生命=ゾーエー」もコロナに対峙しているわけではないということになるでしょう。「生きる」ということは、2つの観点でまったく異なる顔をもつことになると思われます。



以上を踏まえて、藤島さんにご質問させていただきたいと思います。コロナウィルスなどの遺伝情報を持つ構造体の増殖、つまりはゾーエーとしてのみ増加していくような「生」のあり方は、実際のところ、何が駆動力になっているのでしょうか。なぜコロナは、私たちの身体に寄生してまで増え続けることに執着するのでしょう。遺伝子情報を残すことの意義について、生命とはそういうものだと答えることもできるとは思いますが、しかし、その「生命」とは何かが問題になっているとすれば、もう少し踏み込んでおうかがいしたいと思いました。



次回は、vol.2 宇宙生物学→哲学 【藤島さんからの書簡】をお届けいたします。
荒谷さんの質問に、藤島さんはどのような書簡を返信するのでしょうか?
どうぞお楽しみに!(7月中旬公開予定)

★感想をお聞かせください!

今回、突然変異しながら増殖するウィルス、代謝機能を停止してまで生きるクマムシ等の生命観について、荒谷さんに哲学的に捉えて頂きました。そして、宇宙生物学者・藤島さんに『生きる上で駆動力になっていることは何なのか 』という問いをウィルスに投げかけます。
あなたにとって「生きる駆動力」とは何ですか?今回の記事から感じたことをぜひ教えてください。

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あなたにとって「生きる駆動力」とは何ですか?

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プロフィール

荒谷大輔
荒谷大輔

哲学者、江戸川大学基礎・教養教育センター教授・センター長 1974年生。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。日本文藝家協会会員。専門研究の枠組みに捕われず哲学本来の批判的分析を現代社会に適用し、これまでなかった新しい視座を提示することを得意とする。著書に『資本主義に出口はあるか』(講談社現代新書)、『ラカンの哲学:哲学の実践としての精神分析』(講談社メチエ)、『「経済」の哲学:ナルシスの危機を越えて』(せりか書房)、『西田幾多郎:歴史の論理学』(講談社)、『ドゥルーズ/ガタリの現在』(共著、平凡社)など。


藤島皓介
藤島皓介

宇宙生物学・合成生物学、東京工業大学 地球生命研究所 1982年、東京都生まれ。東京工業大学地球生命研究所(ELSI)「ファーストロジック・アストロバイオロジー寄付プログラム」及び慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科にて特任准教授を兼任。2005年、慶應義塾大学環境情報学部を卒業後、2009年、同大学大学院政策・メディア研究科博士課程早期修了。日本学術振興会海外特別研究員、NASA エイムズ研究センター研究員、ELSI EONポスドク、ELSI研究員などを経て、2019年4月より現職。 生命の起源と進化、土星衛星エンセラダス生命探査、火星での生存圏など研究テーマは多岐にわたる。過去にコズミックフロント(NHK BSプレミアム)、又吉直樹のヘウレーカ!(NHK Eテレ)などTV出演歴あり。




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