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宮本亜門: 違うから面白い、違わないから素晴らしい

更新日 : 2009年02月02日 (月)

第3章 「初めてのブロードウェイは怖かった。でも劇場は温かかった」

宮本亜門さん

宮本亜門: 母親は、私が21歳のときに亡くしたのですがその前の年、お袋が僕に言ったんです、「ブロードウェイというところがあるらしい」。彼女は行ったことがありません、英語もできません。でも、「そこは世界中のショービジネスを愛する人が来て、しのぎを削っている場所だ」と熱く語ってくれました。

それに「本物になりたいの?」というのがお袋の口癖でした。その時はじめてブロードウェイという言葉が僕の頭の中で、きらめきはじめたのです。

そしてお袋を亡くした3カ月後、僕は、そのブロードウェイに行こうと決意しました。突然チケットを買って、一人で大きな荷物を持ってアメリカに行ったわけです。何もわからない、英語も一言もしゃべれない状態です。そして着いたところがForty Second Street、42丁目です。

そのころはほとんどポルノショップかドラッグを売っている人たちばかり。大変汚いところでした、今とは全く違う恐ろしい場所だったのです。「ここがミュージカルで歌っていたForty Second Streetだ」と思って行ったら大ちがい。

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「こんなところに来たのか」と落胆し、ホテルを何とか探して、荷物を置き、汚いアパートの3つの扉を閉め、ベッドに倒れ、あまりの孤独さに泣いたのを覚えております。これがブロードウェイのスタートでした。 しかし、そのあとブロードウェイへの思いは募りました。次の日劇場へ行ったらとても温かかったのです。そのときのニューヨークは僕にとっては冷たい人々が住んでいる場所でした。しかし劇場の中に入ると、お客さんたちの拍手とか想い、人種が違う人たちが横に座って、お互いに話しかけようとしたり、舞台の人たちがとにかく心を開いて楽しそうに演じている。 それはつくり笑いでは一切ないんです。うれしくてしょうがない、見せていることがうれしい、立っていることがうれしい。それをひしひしと感じて、僕は涙を流しながら舞台を観ていました。 「いつか英語が少しでもわかるようになりたい、この舞台に近づきたい」という想いが増し、それからずっとブロードウェイには毎年ダンスレッスンに行きました。六本木で夜バイトをしたり、素人の女の子たちに振り付けをしたり、いろいろとお金を貯めて、ブロードウェイでレッスンを受けることを重ねた20代でした。 そして29歳になって、やっと先ほど言った念願の『アイ・ガット・マーマン』という作品にたどりついたわけです。日本では「違いがわかる男」以降、舞台演出家という名前にはなったのですが、私の夢は、いつも、ブロードウェイでした。 30代、日本ではいろいろな舞台もやらせてもらいました。アジア三部作というオリジナル作品もやりました。大きな舞台も次々やらせてもらい大満足なのですが、心の奥では「僕は世界には永遠に行けないのではないか」という不安がずっとあったのも事実です。

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違うから面白い、違わないから素晴らしい
宮本亜門 (演出家)

2004年、東洋人初の演出家としてニューヨークのオンブロードウェイにて「太平洋序曲」を上演した宮本亜門氏。演劇・ミュージカル界で最高の栄誉とされるトニー賞4部門にノミネートされ、米国の演劇界でも高い評価を得ました。 その後も次々に国内外で作品を発表し、常に新しい表現を試みるとともに、テレビ番組出演....


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