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世界が注目! 舘鼻則孝が描く日本文化の未来

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更新日 : 2014年06月09日 (月)

第2章 成功するまで、とにかく続ける

舘鼻則孝(アーティスト)

 
創作を始めたキッカケ

舘鼻則孝: 僕は、高校入学前から美大受験のための予備校に通いました。入学を勧めてくれたのは母でした。母は若い頃、美大を目指していた時期があり、さまざまな理由により夢を諦めたそうです。僕自身も、小学生の頃から「絵が上手だね」と褒められることが多かったため、自分でもそう思うようになりました。しかし、予備校にいたのは、僕よりもさらに絵の上手な人ばかり。ショックを受けた僕は、大好きだった絵を描くことが嫌いになってしまいました。

ちょうどその頃、「自分は将来、どのような仕事をしたいのか」と考えていました。絵からは離れたものの、文化や芸術に関わる仕事はしたい。加えて、人とコミュニケーションできる仕事がしたかった。そこで、服を通じて人とコミュニケーションできる、ファッションデザイナーになろうと決めました。

高校1年生の頃、初めて洋服を作りました。自分のためにジャケットとパンツ、帽子、バッグを作りましたが、靴が足りなかった。僕にとって、初めての靴作りでした。誰に教わることもなく作っていたため、試行錯誤の連続でしたが、手でものを作ることはとても楽しく、毎日のように没頭していました。

そんな僕を後押ししてくれたのも、やはり母でした。日頃から「好きなものや欲しいものがあるのなら、自分で勉強して作りなさい」と言っていた母は、お人形だけでなく、洋服や料理など、あらゆるものを手作りしていました。そのため、材料や道具を買う費用は惜しまず出してくれました。母の言葉や姿から、僕は知らず知らずのうちに大きな影響を受けていたのかもしれません。



コム・デ・ギャルソンのショップで展示される

舘鼻則孝: 初めて服や靴を作った頃から、週末になると青山、表参道などを訪れました。パソコンで手作りした名刺と作品の写真をバッグに入れ、海外で活躍する日本人デザイナーのショップに行き、「見てください」と言ってまわっていたのです。基本的に、店頭に立つのはデザイナーではなくショップスタッフですから、いま振り返ると非常に迷惑な少年だったと思います(笑)。実際、ほとんどは体よく断られ、写真を見てもらうことはできませんでしたが、とにかく通い続けました。

あるとき、何度も通っていたコム・デ・ギャルソンのスタッフから「上司に作品を見せたいので、写真をください」と言われました。僕自身、大好きなブランドだったため、非常に嬉しかったことを覚えています。それから8年後、自分のブランドを立ち上げたとき、僕はコム・デ・ギャルソンのデザイナー、川久保玲さんにお会いすることができました。実は、面会のきっかけを与えてくれたのは、幹部に昇格したそのスタッフだったのです。

長く憧れていた川久保さんにお会いしたとき、一生懸命物事に取り組み、行動し続けていれば、やがて喜ばしいことに結びつくのだなと、強く感じました。さらに嬉しかったのは、川久保さんの協力により、僕の靴が世界中にあるコム・デ・ギャルソンの店舗で巡回展示されたことです。

結局、失敗で自分を止めてしまうと、それは失敗になってしまいます。成功をつかむまで続ける限り、それは失敗ではないわけです。

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