記事・レポート

住職に学ぶ、集中力を高める方法

~六本木で煩悩リセットいたしませう~

更新日 : 2009年12月22日 (火)

第1章 上手くやろうとするほど、上手くいかない

上手くやろうとすればするほど上手くいかない——そんな経験はありませんか?
「心を煩わせ、悩ませる」煩悩があると、今なすべきことに集中できず、物事がうまくいかなくなるのです。どうすれば煩悩をなくし、集中力を高めることができるのか。月読寺の住職、小池龍之介さんにお話を伺いました。

スピーカー:小池 龍之介(月読寺住職/正現寺副住職)

小池龍之介氏

小池龍之介: 私は大学を卒業してまもない頃、お坊さんと予備校の国語講師を兼任して生計を立てていました。今でこそ、こうして皆さんの前でお話をしていますが、常に人前で話さなければならない仕事は、当時の私にとって辛いものでした。「上手にやらなければならない」という気持ちに駆り立てられていたからです。

「上手にやらなければならない」と強く自分をしばっていると、皮肉なことに上手にできないのです。当時の私は、一つひとつのセリフや内容が相手の心にいい影響を与えていなければならないと思っていました。だから、「ちゃんとわかってくれていないな」「生徒がつまらなさそうにしているな」と感じると、そのたびに強いショックを受け、心がズキッとしました。そのズキッというのが、ひどく自分を苦しめたのです。

どうやって「上手くやらなければならない」という思いから解放され、リラックスして話せるようになったのか——それは仏教の根本的な概念である「煩悩」、つまり、自分を苦しめるさまざまな“心の乱れ”をどのように鎮めるかという話につながります。

煩悩という言葉は、皆さん何となく知っていると思いますが、一般的に「私は煩悩が強くて」と言うときは、しばしば異性への気持ちが強すぎるとか、そういったニュアンスで用いられることが多い気がします。

仏教でいう煩悩は少々異なります。煩悩という文字は「煩わせ、悩まされる」と書きます。心のさまざまな働きのうちの「煩わせるもの」「悩ませるもの」、すなわち自分に負担をかける心の働きをすべて、煩悩と名づけているのです。

では、煩悩はどこから生じるのでしょうか。まったく無のところから湧き上がるということはありません。かならず煩悩が生じる原因があります。心の中にひずみやドロッとした思いがたまっている。たまっているけれどもふだんは気づかないから、急に湧き上がってくるように感じるのです。この湧き上がってくる心のしくみそのものを座禅瞑想を通じて把握したうえで乗り越えていこうというのが、仏道の本義の1つと言えます。

煩悩が湧き上がる心のしくみについてお話ししましょう。心が動くには「原材料」が必要です。つまり、外から何らかの情報やデータが心に入力されるということです。情報の入り口は、目、耳、鼻、口、身体感覚。これら五感ともう1つ、自分の中の「記憶」になります。記憶が呼び起こされることも、情報の入り口にあてはまるのです。この6つの入り口を「六門」と言います。六門を通じて情報が入力されると、私たちの心が反応するのです。

例えば、隣りで赤ん坊が泣いているとしましょう。泣き声を聞いて「ああ、かわいそうだ」と心が反応します。あるいは、「うるさくてたまらない。ふざけるな」と思う人もいるでしょう。これが煩悩です。なぜ煩悩かというと、「赤ん坊に怒りを覚えるなんて道徳的に悪い」からではなくて、そのときにイラッとする人とイラッとしない人、どちらが幸せかということです。それは火を見るより明らかです。赤ん坊が泣いているそばでしかめ面をしている人を見て、「ああ、幸せそうだな」と思うことはありません。

では、そもそも「この音はうるさい。嫌な音だ」という思いがなぜ生じるかというと、「こういう種類の音は嫌だ」ということを記憶が知っているからです。自分が生まれてから積み上げてきた膨大な記憶、「こういうのは素敵だ」「こういうのは嫌だ」といろいろな反応がたくさん積み上がって、心のフィルターになっています。

情報は瞬時にしてこのフィルターに通され、反応が生じます。「よし、今からフィルターにかけて、苛立っちゃうぞ」「今からフィルターにかけて、かわいそうと思っちゃうぞ」と思う暇はないのです。自分で決めているわけではなく、心が自動的に記憶にもとづいて反応するのです。

「あなたは仕事ができて、素晴らしい人間ですね」と言われると、一瞬でものすごく心が浮き上がってしまう。それは「自分に自信がない」「いろいろ失敗してきた」「認めてもらえなかった」など、過去の記憶の累積が一瞬にして参照されて、「ああ、これが欲しかったほめ言葉だ」と、自動的に反応してしまうからです。自分の心の中に積もり積もっている記憶のフィルターを通じて、気づいたときには心が勝手にそう反応しているのです。

心に情報が入力される段階を「識」といいます。そして、一瞬にして記憶のフィルターを通じてその情報を自分なりに決めつけ変形する作用を「想」といいます。さらに、その記憶のフィルターを通じて「ああ、心地よい」「ああ、不快だ」とビリッと刺激が走ることを「受」といいます。そしてそのビリっとした刺激に命令されて、欲望や怒りや迷いといった衝動的なエネルギーが発生し、これを「行」といいます。仏教でいう「行」とは、手を動かしたり、走ったり、口を動かしたりする“行い”だけではなくて、頭で考えることも「行」ととらえます。この衝動的な「行」の力で心が走り出します。快楽の刺激を受けると欲望がゾゾゾッと上がってきて、その快楽をもっと増幅させなければならないと、心が駆り立てられます。

私が今、「皆さんによく思われたい。上手く話して尊敬を受けたい」という気持ちをもっているとします。すると、皆さんの表情を見るたびに、「ああ、これはどうなんだろうか」と苦痛が生じてきます。苦痛が生じると、いても立ってもいられなくなるのです。心の情報処理が乱れて、「こう言ったほうがいいだろうか?」「それともああ言ったほうがいいだろうか?」と心があちこち走ってしまって収拾がつかなくなるのです。その結果、何を話すのが適切かという判断ができなくなって、しどろもどろになってしまうのです。

関連書籍

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小池龍之介
ディスカヴァー・トゥエンティワン

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