記事・レポート

ネットいじめ~ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」

更新日 : 2009年08月26日 (水)

第12章 社会的身体の獲得と女性性の変容

荻上チキさん

荻上チキ:  若い女の子に料理をつくらせて、その料理をつくれないさまをおやじどもが笑って、「最近の子はけしからん」みたいなことを言い合うテレビ番組があります。その番組を見るたびに「は? お前たちもできないくせに」と思ったりすると同時に、『クックパッド』というレシピサイトとか料理本を見ながらそれなりにつくれるのだったら、「わざわざ脳のシナプスを1個使ってまで、料理覚える必要なくね?」みたいなことを素朴に思ったりします。

そもそも、メディアを手に入れるというのは、僕は「社会的身体を使った適応の方法を模索する」ということだと考えています。どういうことかというと、そもそも私たちの脳の記憶容量には限界があるし、人に伝えられる範囲にはもちろん限界がある。物事を伝えるためのメッセージの伝達方法みたいなものにも限界があれば、その範囲にも限界があるというような、さまざまな身体的な制約があります。

出来事を伝達して継承して残していくという形として、基本的に記憶して、それを物語にして語っていく、あるいは歌とかにして歌の歌詞に乗せてそういったものをどんどん伝えていくというメディアが古代にはずっと定着していました。それに文字が登場したことによって、文字を使って伝達することができるので、「本当に大事なことは頭で覚えずにメモれ」みたいなことが言われるようになったりするわけです。

もちろん、その時代にも文字が登場してくることによって、私たちが大事に築き上げてきた文化が損なわれてしまうみたいな、ニューメディアバッシングみたいなものがあったわけです。例えば「活字とかそういったものを誰もが書いてしまうと、口承伝達ができる哲学者へのありがたみが損なわれて困るよね」みたいな、どこかで聞いたような言説がきっとそこで行われていた。

そういったメディアの登場というのは、今まで、例えば生物的身体が担わなくてはならなかった、制約というか限界みたいなものを「メディアを通じて外部化し、社会的身体として獲得していく」というプロセスでもあるわけです。

例えば、今僕たちがメールで1回ぐらい連絡をしたことのあるぐらいの人と待ち合わせをするとします。大体ざっくりと「渋谷ハチ公前ぐらいで待ち合わせをする」といったとき、相手も自分も携帯を持っているということがあらかじめ組み込まれていて、メールであらかじめの時間と場所をざっくり決めてしまえば、特徴や写真を相手に送らなくても、電話で相互特定しながら互いに会うことができる、目的を果たすことが期待できます。

今までの社会だったら大声出さなきゃいけないとか、あるいは「こういう格好をしている」と言うとか、ヒッチハイクみたいなボードを持たなければいけないとか、さまざまなやり方をしなければならなかったのが、インターネットというか、携帯メディアを持つことによって、テレパシーをやりとりするような感覚で、社会的身体として獲得した機能を相互に期待しながら行動することができるようになってきた。
 
例えば『クックパッド』とか『発言小町』とか、その他もろもろのメディアを見てもわかるとおり、今までの社会であれば、制約的、限定的に脳や体にインストールしなければいけなかったものを、徐々に外部化することができるようになった。あるいは、場所や時間に限定されていた形とは違う形で、「つながり」を構築することができるようになった。

そこで、包丁やガスコンロの使い方は学ばなければいけないかもしれないけれど、検索でたどりつくことができるのであれば、豊富なレパートリーをそれほど脳にインストールする必要は必ずしもないんじゃないか、的なことを思ったりする。僕もレシピは2桁くらいしか覚えていませんが、それでもネットに頼ることで、それなりに「そこそこ食えるレベル」のレパートリーは膨大に増やすことができる。

「女なら料理ができて当たり前」というように、規範としてはつくらなきゃいけないという言説が強固にあるかもしれないのですが、少なくとも覚えていなかったとしても生きていくことはできるのは、ずいぶんいいことだと思うし。あるいは逆に彼氏を家に呼ぶときに「料理ができる子アピール」ぐらいには役立つと、新たな「絆」も生まれるんじゃないかとか(笑)、そういうことができるようになってくるという状況になっているわけです。つまり、ジェンダー、つまり「生物学的な性=セックス」に対する「社会的な性」への意味づけも、メディアによって変化していく部分があるわけです。