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六本木アートカレッジ
<未来を拡張するゲームチェンジャー>イベントレポート

自分だけの視点<EYES>を持つ

更新日 : 2023年08月23日 (水)

【2】和田夏実(インタープリター)



2023年はChatGPTの出現で、「10年後になくなる仕事は?」といった予想がさらに現実味を増して捉えられています。「人間にとって仕事とは?」「自分らしく生きるとは?」を、より問われる時代となったとも言えるでしょう。

2022-2023年の六本木アートカレッジシリーズ <未来を拡張するゲームチェンジャー U-35>」では、新しい価値を生み出す5名のゲストを招き、トークイベントを開催しました。ゲストに共通していたのは、業界やジャンルの境界にとらわれず、オリジナリティのある道を切り拓いていること。当初「U-35」と年齢で区切っていた企画でしたが、お話を聞くにつれ、彼らが道を切り拓いていく源は「若さ」にあるのではなく、「自分だけの視点<EYES>」にあると感じました。

そこで、<六本木アートカレッジ>でのトークを振り返りながら、ゲストスピーカーの「社会の捉え方」や「世界の見方」など、独自の視点にスポットをあてたイベントレポートをお届けします。
第2回のゲストは、手話通訳を中心としたインタープリター(解釈者)として活動する和田夏実さん。手話と身体をつかったコミュニケーションの可能性について、元陸上選手の為末大さんのモデレートでお話いただきました。

和田夏実's EYES 1「手話」は視覚的な「映像言語」。
音声言語とは違う感覚世界が広がっているのではないか。
私は、ろう者の両親のもとで生まれて、「手話」を第一言語として育ってきました。一番最初に覚えた言語は「手話」だと思います。赤ちゃんは、泣いてアテンションを集めて、それに対して親がうんちかな、ご飯かな、と想像していきますが、言葉を話せるようになる喉や口の発達より手の動きの発達が早いので、ベビーサインや、ボディランゲージなどもありますが、身体が意思表示することで、“お腹が空いている”などを正確に伝えやすかったのかもしれません。手話に限らず、バイリンガルの子供は、3〜4歳までは頭の中でどっちがどっちかわからない状態で、使い分けができないといいます。私も、日本語(音声言語)で話しかけられたのに、手話で返事をしたり、その逆もありました。そうしてふたつの言語の中で成長するなかで、「手話」は視覚的な「映像言語」としての魅力があるのではないか、音声言語とは違う感覚世界が広がっているのではないか、と思うようになりました。

そういった興味が膨らみ、通訳の仕事とは別に、身体表現を使ったインタラクティブな作品も作っています。この作品はセンサーで手の動きを読み取って、その動きをもとに映像が映し出されます。雨が降る表現を「ポツポツ」「ざーざー」という言葉ではなく、手の動きの速度でその人自身のイメージで表すことができたり、飛行機の飛ぶ様子も手の動きによって変わります。「手話」のメディアとしての特性をいかして、心象風景を外に表す手段としての表現を考えた作品です。


▲An Image of... Natsumi Wada , Yasuaki Kakehi (2021)
和田夏実's EYES 2話す人の頭の中の「イメージ」を「手話」に変換していきたい。
手話は、手でイメージをトレースしていくような表現ですが、音声言語はものにラベルをつけていくものです。この2つの間で「通訳」をしていると、例えば、ある「形」を伝えるとき、手話ではすごくわかりやすいイメージで表現されているのに、言葉にすると「箱型で、とんがっていて、こっちに丸があって、、、」と回りくどく説明しなければならない、ということが起きます。逆に、音声言語で「花が咲いていて、すごく綺麗だったんです」と言われたときに、私がそれを手話に変換して通訳するには「それがどんな花だったのか?ひまわりだったのか、ガーベラだったのか、花畑だったのか、1本の花だったのか」、といったことを知りたくなります。それを知らないと、通訳・翻訳としての“正しさ”につながらないと思うのです。幼い頃から通訳を通して、話す人の頭の中の「イメージ」を「手話」に変換していきたいと思うことが増えていきました。

和田夏実's EYES 3何十年分の記憶が、私たちの体の中にありありと存在している、
再現可能な状態で眠っている、ということを実感する。
数年前に始めた盲ろう通訳では、触手話(手話を指で触る)という通訳方法を取りますので、その人の身体にある記憶を、どうトレースしていくか、というのが肝です。例えば「輝く」という表現が、その人の中でどのような体験として存在しているのか、が大事になってきます。アメリカ手話では「輝く(Bright)」を表現するために、一方の手を、もう一方の手にぶつけて反射させるような動きをします。日本手話だと、手をキラキラさせる動きで「輝く」を表現します。このように日本とアメリカという国の間でも光のイメージに違いがあります。
さらに個人におとしていくと、先天性の盲ろう者の方の場合、「光」を見たことがない方もいらっしゃいます。ひとりひとりがどんな「光」の概念を持っているのかを探りながら、「雨が身体に落ちてパンと弾けるような感覚はある?光も同じ様に直線的に身体にふりそそいでいて、それが弾けた時に輝きが起こるんだよ」といった風に伝えていきます。相手の方の世界がどう広がっているか、共にめぐっていくような翻訳になります。相手の身体の中に入っていくイメージですね。盲ろう通訳をやっていくうちに、これまで生きてきた何十年分の記憶が、私たちの体の中にありありと存在している、再現可能な状態で眠っている、ということを実感することが多々あります。

その中で通訳を通して私がやりたいことは「フィジカライズ」、つまり、その人の身体感覚に紐づいた状態で、どうやって世の中に接続できるかということに興味があります。盲ろうの方が道を歩いているときにどんな風に街を認識しているのかを探りながら、触覚のサインシステムとして、街に落とし込んでいくにはどうしたらいいだろう?ということを触覚デザイナーでもある盲ろう者の方自身とともに、考えています。実際に、盲ろうの方に形にしてもらいながら、点字ブロックの新しい形やサインシステムを考えてみる、といった取り組みも横浜市の助成を頂きながらやっています。私にとって、ひとりひとりの身体感覚と社会を繋げていく活動がインタープリター、通訳としての醍醐味だと思っています。



和田夏実's EYES 4手話も、触覚、視覚も、その人の中にある意識の向かい方の違いによって生まれた感覚の解像度であって、それによって世界をどう構築するかということが、環世界にもつながっていく。
ある盲ろうのデザイナーの方と共同作業をしている時に、これは皆さんにもぜひやってみていただきたいのですが、その彼が「まず目を瞑って、目の前のものを指で触ってください」と言うのです。その時、触れている部分は、自分の指の腹とその物体の一部だけ。でも、なんとなく大体のサイズ、重さなどが頭の中でわかる感じがしませんか?学術的にはダイナミックタッチと言うそうなのですが、彼は街の中で思いがけず触れてしまったものから、そのもののサイズが頭の中に想起されていき、どんどん触れていくことで空間上の情報がイメージされていくのだそうです。まっさらな空間(CAD空間のような)を想像して、そこで何かにふっと触れると、壁ができて広がっていく感じでしょうか。触れているのはほんの一部分だけれど、そこに空間や世界が立ち上がっていくそうです。私が多くの方と関わりながら通訳・翻訳するなかで感じたことは、手話も、触覚、視覚も、その人の中にある意識の向かい方の違いによって生まれた感覚の解像度であって、それによって世界をどう構築するかということが、環世界にもつながっていくと思います。
人間の頭の中の多様性に対して、音声言語(外言語)はカチッとラベルをつけて世界を分けていきます。それがダメではないのですが、もしかしたら別のメディア、言語を通すと、その人のイメージのままに外に出すことができるかもしれないと考えていて、その可能性にときめいています。
和田夏実's EYES 5ペガサスとキリン。見たことがなかったら、どちらがファンタジーかわからない。
以前、盲ろうの方で「僕が12歳になって、ファンタジーを理解するに至るまで」という内容の卒業論文を書いた方がいます。彼曰く、12歳になるまでファンタジーを理解することができなかったそうです。
ペガサスとキリンって、見たことがなかったらどちらがファンタジーか、わからないと思いませんか?「羽」に触ったことがある、「馬」を触ったことがある、という経験があったとしたら、「首の長いキリン」より、「羽が生えた馬」であるペガサスのほうが最もらしく感じませんか?「キリンは首が長い?首って伸びるの?」と考えることはあり得るし、「ハリーポッターは本当はいないの?なんで?」などがうまく理解できない、と。そのあたりの境界を、親子の対話や寝て見る夢(目覚めたら夢と違う場所にいたという体験)をきっかけにして、自分の頭の中には想像の世界があって、それは他人とは違う世界で、それをファンタジーと呼ぶのだ、と気づいたという方もいます。断片的な情報から、何をどう想像するかは、人によって全く違うので、すごく面白いです。

私は手話で学ぶ子供向けに、思考力の問題づくりもしていて、通常の文章問題だと、文字の理解度によって偏差値が左右されますが、そうではない方法で、どうやったら子どもたちの頭の中の世界、思考を表に出せるか、といった研究をしています。「素朴理論」というものがあって、例えば、子供が「地球は四角い」と言ったときに、自然科学的な答えではないのですが、まずその考えを肯定したその子がどうして「地球は四角い」と考えたのか、その理由から地球を再解釈する学び方があるんじゃないか?と考えます。これは、今の社会の考え方とも近いのではないかと思います。
また、過去問題を見ていると、考え方がいわゆるソーシャルゲームのルールに似てると感じることもあり、子どもの発達上一概にゲームがダメとはいえないと思います。その一方、イメージの世界だけでなく、身体に感覚を戻していく作業も大事だと思います。実は、最近の子供達に買い物の問題は出しにくいんです。「お店でいくら払って、お釣りは?」と言っても、「ネットで買うからお店に行かない」とか「キャッシュレスなのでお釣りは出ない」みたいな感覚を持っているので(笑)。身体感覚は、使わなければ失われていきます。手話で「電話」の表現は、黒電話のダイヤル回したり、受話器を耳にあてたりする動きだったのですが、折りたたみ携帯になり、スマホになり、と変わってきています。身体に意識を向けるために、家の中で目を瞑って歩いてみる、5分間真っ暗で過ごしてみるなど、簡単にできる身体を使ったアクティビティをやってみてはいかがでしょうか。
和田夏実's EYES 6小さい頃どんな遊びをしていたのか、「切ない」というイメージをどう定義しているか、などその人の身体性や精神性を感じたほうが通訳ができる。
自分と全く違う相手の世界を想像する手段として、感覚的には、触手話、手話、日本語の順番で可能性があると感じます。私が一番苦手なのは、日本語です(笑)。 理由は色々あるのですが、触手話は、2人の世界の中で「わかる」まで作っていきます。手を触れながら、心が通い合うような、とてもホットなコミュニケーションの状態が生まれている気がします。次に手話は、まだ言語になっていない頭のなかの、ぽわぽわしたイメージをそのまま出して、それを頼りに話している感覚があります。手話は、共創が多い表現なので「あれを持ってきて」と手話で伝えたとき、「これ?」「こういうやつ」「ああこんな感じ?」とお互いが擦り合わせていきます。一緒に形をイメージしていきながら「これか!」と辿りつくコミュニケーションです。一緒に箱庭をつくっていく、みたいな感じですね。
通訳の現場では、お仕事や年齢、肩書きを最初に伺って通訳をすることが多いのですが、それだけだと私は通訳ができません。それよりも、その人が小さい頃どんな遊びをしていたのか、「切ない」というイメージをどう定義しているか、などその人の身体性や精神性を感じたほうが、通訳ができます。長年一緒にいないとわからないことかもしれないけれど、初めましての方ともそういうことができるかもしれない、できたらいいな、と思います。
和田夏実's EYES 7通訳するときは、自分をゼロにして、どんな体験でも受け入れよう、と思っている。 通訳のあと、何を話したのか覚えていないことも。
実は、通訳するときに一番難しいのが、アスリートの方々です。私が通訳の資格をとったのが20歳で、その時に、このまま通訳の仕事をするのではなく、色々なことを知らなければならない、と思いました。というのは、私の身体が若過ぎて、例えば出産された方の体験談をもらうのはすごく難しいことだ、と思ったからです。もちろん本当の意味で人の痛みはわからないとは思うのですが、「身体がものすごく痛い」という状態、これを知っているのと知らないとでは差があります。
同じようなことがアスリートの方に言えます。以前バレリーナの方の対談の通訳をしたとき、わずかな相槌や言葉のなかにも、その人の何年もの集積、身体の経験が乗っていると感じました。例えば「身体をピン!と伸ばすのが大事なんです」と言う、その「ピン!」に乗っているものがあって、それが私の身体ではとうてい触れられないところにある、と。難しいことをおっしゃっているわけではなかったのですが、その言葉の重さを考えたときに、本当に難しいことをさせていただいているな、と思いました。その方が発する言葉の重さ、温度を受け取るには、私がその身体を知らないと、少なくとも並走していないと到底難しいと思います。
だから通訳するときは、自分をゼロにして、どんな体験でも受け入れよう、と思っています。身体的には合気道に近いかもしれません。(イタコみたいに)相手を自分の中におろしてくるというか、通訳のあと、何を話したのか覚えていないこともあります。



和田夏実's EYES 8私がやっていることは、「わかる」方法ではなく、「わかろうとする様々な手段を持つ」こと。
以前、両親に「不協和音て何なの?」と聞かれたとき、帰り道に靴下が雨で濡れて気持ち悪い、あの感じに似ている、と説明したことがあります。的を得ているかはわからないけれど、あの時のあの感じを、どういう風に共有していけるか、ピッタリとは重ならないと自覚はしているのですが、わかろうとする間(あわい)の中に、何かが見つかるかな、と思っています。 手話に限らず、人によって文化体験や、リズム、間(ま)も違ったりしますよね。話されているアナロジーをそのまま伝えても全然伝わらないこともあるんです。その場で「ワッ」と笑いが起きたとして、その面白さが全く伝わらない世界線に生きている人もいるので、その場合「こういう世界があって、こういう意味で、それで今笑いが起きているんですよ」と説明することになります。他の方法としては、「これは、あなたの世界でいうとこれですよ」とアナロジーの入れ替えで翻訳する方法もあります。即席のアドリブなので、あとで「あ、ちょっと違ったかも」ということもあります。

ある社会的な規範にのっとって話すとき、それを相手に理解してもらわなければならないのですが、自分の中の常識を前提にしすぎないように、と気をつけています。自分の思っている「社会」と、相手の思っている「社会」は違うという前提で考えなければならないですし、マジョリティーとマイノリティのバランスはとても難しいことだと思います。

私がやっていることは、「わかる」方法ではなく、「わかろうとする様々な手段を持つ」ことです。「わかる」「わからない」は結論が出て終わってしまうのですが、「わかりあおうとし続ける」ことは、すごく発展する可能性があると思います。その手段のひとつとして、人間の持っている身体感覚を信じ、ものを作ることを通して、触覚のデザインはおもしろいんだ、ということを世に問い直していきたいと思っています。自分の中の大切なものを外に表現していくこと、伝える続けることで、ゆるやかで小さいとても大切な革命を起こしていきたい、それが社会を耕すのではないか、と考えています。ひとりひとりの方々の中にある大切なものを、どう世の中に伝えていくか、翻訳していくかが、私の中の大切なテーマになっています。

▼トークシリーズ(全5回)詳細はこちら
<未来を拡張するゲームチェンジャー U-35>Vol.2
Health×テックの未来
〜言語を超え「まだ知らない感覚の世界」を手に入れる!〜
<未来を拡張するゲームチェンジャー U-35>Vol.2 Health×テックの未来 〜言語を超え「まだ知らない感覚の世界」を手に入れる!〜

手話通訳を中心としたインタープリター(解釈者)として活動する和田夏実さんと、為末大さんの対談。“心と身体”“イメージと言語”について異なる分野でアプローチするお二人に、身体や意識が人間に与えるパワーについて、人間とテクノロジーを掛け合わせ、どんな未来を実現していきたいか、お話しいただきます。



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