記事・レポート

六本木アートカレッジ・セミナー
シリーズ「これからのライフスタイルを考える」第4回
身体の拡張:能楽師・安田登×為末大

能で読み解く、日本人の「こころ」と「からだ」

更新日 : 2017年01月17日 (火)

第2章 風景に溶け出していく、こころとからだ



「身」と「からだ」

安田登: 「膝はどこ?」とたずねられれば、「膝頭」を指します。ところが、「子どもを膝に乗せて」と言ったとき、膝頭に乗せる人は誰もいませんでしょ? 太ももの上、足の付け根から膝頭のあたりに乗せるはずです。そこが昔の日本人にとっての膝でした。このように昔の日本人にとっての身体は、たとえば膝頭というようなポイントではなく、そのあたり、「界隈」といったような非常に大ざっぱな、そしてあいまいな身体だったのです。

以前、『言語』という言語学の雑誌で古事記に関するコラムを1年間続けましたが、あるとき、古事記の中に「からだ」という言葉が見当たらないことに気づきました。代わりにあったのは「み(身)」。身とは実と同源であり、身体の中に命や魂、心が宿っている状態です。その後、時代が下ると「からだ」という言葉が登場しますが、その語源は「殻(から)」と言われており、「からだ」という語はかなり長い間、日本では中身のない身体、「死体」を意味しました。

このあたりのお話は『日本人の身体』(ちくま新書)にも書きましたが、昔の日本人の身体感覚はとてもあいまいで、「身」は色々なものと一緒になっていました。ところが明治時代になり、西洋から様々なものとともに心身二元論が到来し、「身」は「こころ」と「からだ」に切り離され、「からだ」は自分自身から離れて対象化されるようになったのです。当時の社会の変化について、夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で皮肉っています。
 
あいまいな日本人の身体性

安田登: 能では「自分と他人」の境界もあいまいです。有名な羽衣伝説をもとにした『羽衣』では、漁師と天女のセリフが流派によっては逆になります。ある流派では天女が言うセリフを漁師が言い、漁師が言うセリフを天女が言うのです。これはたとえば、ロミオのセリフをジュリエットが言い、ジュリエットのセリフをロミオが言うようなもの。ふつうはあり得ませんでしょ? しかし、これは能だけの話ではなく、私たちも普段からこのようなことをやっています。

たとえば、Aさんが「昨日のあの番組……」と言ったら、すかさずBさんが「面白かったね」と返すことがあります。本来は「昨日のあの番組、面白かったね」まではAさんが言うはずです。相手の言わんとすることを察し、先回りして後を継ぐ。最初に話を切り出した側も、相手が察することをどこかで期待している。こうしたことを「共話(きょうわ)」と言います。

西洋では、このようなことをしたら未成熟な奴だと思われてしまいます。ひとりの人の発言を最後まで聞き、次に自分が発言することが一般的だからです。これは双方が話を自己完結するため、話の流れが平行する2本の線になります。それに対して「共話」では、双方が互いの思いを察し合い、1つの話を一緒につくり上げていきます。

能は主人公となる「シテ(『羽衣』ならば天女)」と、相手役となる「ワキ(漁師)」の掛け合いで展開しますが、物語が進行すればするほど、会話の「間」が短くなり、共話も増えていきます。ふたりの気持ちは、ふたりを超えて風景になってしまう。会話が進めば進むほど深化し、表層の「こころ」から、深層の「おもひ(思い)」へと移行していきます。

自他の境がだんだん消失していくのです。

そして、シテとワキの「共話」が頂点まで盛り上がると、それが地謡(じうたい)という、舞台の横に並ぶコーラスグループに引き継がれます。ふつうならば、地謡はふたりの会話を引き継ぐと思うのですが、両者の会話が地謡に引き継がれた途端、その場の風景のことなどが謡われてしまうのです。

ふたりの思いは自他どころか周囲の風景とも混ざり合い、溶け合ってしまう。個人の意識(こころ)から、集合的な無意識(おもひ)へと変容していくのです。

これも能だけに限りません。日本人は昔から、感情を個人の中にとどめず、風景と溶け合わせるという心性があったようです。



私は全国で「寺子屋」を開催しており、毎回様々な世代の方が参加されますが、時々、皆さんと一緒に文部省唱歌を歌ったりします。で、たとえば『朧月夜』を歌う。すると、高齢の方ほど涙を流されることが多いのですが、どこが悲しいんだろうと『朧月夜』の歌詞を読み直してみても、「悲しい」とか「さみしい」とかいうような感情表現はひとつもないのです。歌われている内容は、ただ風景だけです。しかし、歌われる風景によって記憶が呼び起こされ、涙を流す。風景の中には、心の奥底にある感情を刺激する「情の糸口(緒)」、すなわち「情緒」があるからです。

月や花は、ただ、そこに存在しています。しかし、それに対して、私たちは何かを感じる。本居宣長はそれを「もののあはれ」と呼びました。「あはれ」とは、見るもの、聞くもの、触れるものに対して心が何かを感じとり、無意識にあふれ出してしまう「あぁ……」という深いため息です。「もの」というのは、物の怪や物思いという言葉があるように、言語化できない漠然としたものです。

思いがかなわない、取り戻すことができない、自分にはどうにもできない。言葉にできない感情や思いを抱えたとき、「身(心と身体)」の底から嘆息(なげき)の声があふれ出し、それを風景に重ね合わせていく。『万葉集』をはじめとする歌集や『奥の細道』などにも、そうした歌や句はたくさん登場します。

昔の日本人の身体感覚はとてもあいまいで、「身」は色々なものと一緒になっていた。私はそれを「縁側的身体」と呼んでいます。古い日本語では、閉鎖された「うち」と開かれた「そと」との間に、「なか」と呼ばれる空間がありましたが、縁側はその代表です。

「うち」まで入れる人は「身内(みうち)」だけです。身内ではないけれど、他人とも思えない存在は「なか」、縁側まで入れる「仲間(なかま)」です。縁側は、建築の構造として内外をつなぐ空間ですが、それだけに留まらず、目には見えない人の関係性など、様々なことの「うち」と「そと」とをつなぐ、あいまいな「なか」空間でもあるのです。

まだまだお話ししたいことはたくさんありますが、一応、このくらいにしておきますね。


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六本木アートカレッジ 伝統を未来へどう伝えるか
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安田登(能楽師)×為末大(元プロ陸上選手)
ロボットスーツの登場、VR,AR、そして人工知能などのテクノロジーが進化する未来において、人間の身体性はどのように変わっていくのでしょうか。そのとき、我々はどのような生活を送っているのでしょうか。『日本人の身体』著者の安田登氏と、パラリンピアの育成に努める為末大氏による対談セミナー。


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