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「半端な気持ちで来るな、本気で来い!」藤巻幸大×奥山清行

日本元気塾 第3期開講プレ対談 第2弾

日本元気塾
更新日 : 2012年02月13日 (月)

第1章 人生は決断の連続。エポックメーキングな出来事はない

やりたいことは、たとえ敵をつくってでもやり遂げろ! 突き抜けろ!
組織ではなく、プロフェッショナルな個人として結果を出し続けてきた藤巻幸大氏と奥山清行氏。その生きざまと信念は、日本元気塾の藤巻塾と奥山塾の特色そのものです。2人から第3期入塾希望者へ、熱きメッセージという名の挑戦状を送ります。

講師:藤巻幸大 (株式会社シカタ 代表取締役プロデューサー)
講師:奥山清行 (工業デザイナー/KEN OKUYAMA DESIGN代表)

藤巻幸大氏(左)奥山清行氏(右)

藤巻幸大: 奥山さんは大学卒業後、アメリカに渡ったんですよね。そこからなぜフェラーリに行き、なぜ鉄瓶を手掛けるようになり、なぜ地場産業のものづくりに行き着いたのか。その流れや時代背景から伺いたいのですが、最初にアメリカに渡ったのは何歳のときですか?

奥山清行: 22歳です。1982年だから、ちょうど30年前。振り返ってみると、だいたい4年ごとに住んでいる国や会社が変わっています。ある程度の業績を残しながら、自分で納得できるレベルになるリズムは人によって違うけれど、大体4年ぐらいはかかりますよね。日本に帰ってきて4年経った今、また次の問題が見えています。

藤巻幸大: 奥山さんにとってのエポックメーキングというか、心を突き動かされた出来事って何ですか?

奥山清行: それが意外とないんです。

藤巻幸大: ピニンファリーナに行ったときとか、賞を取ったときとか、いろいろありそうですが、ない?

奥山清行: ないですね。人生にはその都度、その都度、決断ってあるじゃないですか。僕だけじゃなくて藤巻さんにも、あるいはこれから来る塾生の人たちにも、人生の分岐点はしょっちゅうある。

藤巻幸大: 下手したら、日々あるかもしれない。

奥山清行: でしょう? 小さい分岐点は山ほどあって、その都度Yes/No決断しながら前に進んでいる。でも、ある時点に来ると、もっと大きな分岐点が来る。日本に帰ってきた4年前、僕は大きな分岐点の1つを選んだわけです。その前の4年間はイタリアのピニンファリーナでデザインディレクターをやっていた。その前の4年間はアメリカのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで学部長をやっていた。その前の4年間は、やっぱりイタリアでデザイナーをやっていた。その前はGM(ゼネラルモーターズ)にいました。これまで大きな分岐点が、たまたま4年ごとに来てるんです。

藤巻幸大:  なるほどね。GMからフェラーリに移ったとき、給料がめちゃくちゃ減るのを承知で決断したそうですね。

奥山清行: 給料は3分の1になりました。でもイタリアに渡った最初の4年間はすごかった。エンツォ・フェラーリもマセラティ・クアトロポルテもやったし、歴史に残る仕事を本当にたくさんやりました。

藤巻幸大: それは何歳のときですか?

奥山清行: 36歳ぐらいです。アメリカ型の大量生産に限界を感じて、イタリアに行ったら、アメリカとはまた別の、イタリア型の職人的なデザインの世界が見えてきました。そこで歴史に残る仕事は十分やったので、今度は学んだことを人に教えようと思って、アメリカの大学で学部長をやったら、また違うものが見えてきました。それで自動車デザイナーとしてのキャリアの1つの結論として、最後の4年間はピニンファリーナでデザインディレクターをやったんです。だから今、路上を走っているフェラーリは全部、俺がやりました。

藤巻幸大: すごいよね。

奥山清行: 残念ながら、自分じゃ1台も持っていないけど(笑)。それから東北に行って4年経って、次の分岐点がまた見えてきたので、今はどっちの道に行くかを選ぶために、いろいろな人に会ったり、講演したり、本を書いたりして、考えをまとめている最中です。ちょうど日本元気塾の3期が始まるぐらい(2012年春)から、「さて、実行に移そうか」と。

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