記事・レポート

ネットいじめ~ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」

更新日 : 2009年05月13日 (水)

第1章 本書に込めた裏テーマに踏み込む

荻上チキさん

荻上チキ:  今年の7月にPHP新書から『ネットいじめ~ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』という本を出しました。この本を書いたときに、僕が表のテーマとして意識したのは、「ネットいじめ、あるいは学校勝手サイト、一般に学校裏サイトと呼ばれるものについての実態を調査し、その上でメディアイベント化した流言についての批判的な検証を行う」ということでした。

テレビ、新聞、雑誌では、学校裏サイトやネットいじめについて、「子どもたちに携帯を持たせてしまうと、ネガティブな現象を起こしがちであるので、フィルタリングをかけるなり、原則学校に持ち込みを禁止するなりした方がいいのではないか」というディスカッションの導入として、これらの現象が取り上げられていた感がある。けれど、「果たしてそういったディスカッションを行うために、ネットいじめや学校裏サイトといった事例を取り上げることは妥当なのかどうか」といったことの検証を行っております。

また、インターネットやケータイによって若者のコミュニケーションが唐突に変容したかのような語りを検証するため、学校文化の歴史とネットコミュニケーションの関係を分析しました。インターネットが登場したことによって、学校空間での子ども同士のコミュニケーションはどのように変わっていったのか、あるいは何も変わっていないのかについて注目して分析をしております。

このように、表テーマとしては「ネットいじめ」という現象について語る本書ではあるのですが、裏テーマとしては、次のようなことを意識しながら書いておりました。

まず、「現代社会というものは、そもそも人々にどのようなコミュニケーションを求めるようなステージであるのか」ということです。一般にはインターネットや携帯電話が定着して5年10年、イノベーター層を含めてロングスパンで見ても、まだ15年20年ぐらいしかたっていない状況ですが、そもそも携帯とかインターネットというのが、なぜ私たちの社会に登場してきたのかといえば、社会的な必要に基づいて登場してきているわけなのです。

それはどのようなニーズであったのか。そもそも私たちの社会が、個別のプレイヤーに対して、ある種の振る舞いを求めるような社会へと変化してきたのではないかという前提があります。それが一体どういったステージなのか、という問いを意識しながら書きました。それが1つ目。

荻上チキさん
次に、「人は、メディアに何を欲望するのか」ということです。例えばテレビや新聞が登場したことによって、ジャーナリズムが登場し、娯楽に関しても飛躍的に発展したと言われていますが、それは必ずしもメディアが一元的に用意したものではなく、メディアが登場したことを受け、人々はそのメディアを欲望にあわせて組み替え、メディアにあわせて欲望を発見していく、という歴史的な反復があるわけです。そのプロセスの中で、人々の欲望とメディアとの関係を分析したかった、というのが2つ目。

そして3つ目として、「人々が合理性や準拠集団を求める行動や力学はどのようなものか、それは何を招きうるのか」といったテーマを意識していました。例えばインターネットや携帯電話といったニューメディアが登場すると、それを使ってビジネスチャンスに結びつけようとする人たちが必ず登場してくる一方で、「そういった新しいメディアというのは、すべからく私たち人間にとって、何か負の遺産を残すのではないか」といったような批判的なコメントをつけたがる人たちがいます。

そうした行動は、例えば人を新世代と旧世代という形で区別したうえで、若者バッシング、あるいは旧世代バッシングという現象へと結び付ける。こうした、合理性や準拠集団を求める行動、あるいは新しいメディアを欲望するという行動が、これまで私たちの社会に一体何をもたらしてきたのかということを考えてみたいと思いました。

これらの裏テーマ3つは、2009年春頃に発売予定の著書のテーマに含まれていたりするわけですが、本日は『ネットいじめ』についてのお話を経て、そのあたりのところまで踏み込んだお話ができればいいなと思っております。