記事・レポート

「縄文の思考」~日本文化の源流を探る

更新日 : 2009年08月13日 (木)

第12章 「定住したのは縄文の方が大陸より早い」は本当か?

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 縄文を知るということは、縄文時代にどういうことがあったのかという情報としての知識をいっぱい得るためではないのです。もちろんそれは知的な関心を満足させてはくれますよ。けれどそれが縄文について関心を持つことの意味ではないのです。

つい先日(2008年10月)、『縄文人追跡』という文庫本を出しましたので、興味ある人はぜひ読んでください。これを売ることによって私の足しには何もなりませんよ、印税についてはみなさんご存じでしょう。もともとベストセラーになるような本ではないのですが、なぜ私がわざわざこういう話をさせていただくかというと、縄文のことについて知ってもらいたいからです。

『縄文人追跡』はちくま文庫から出ています、ちくま新書の『縄文の思考』は私の縄文哲学を語っているものです。興味がおありの方はぜひ目を通していただければ大変ありがたい。縄文ファンを私はつくりたいのです。今日はご清聴、ありがとうございました。

会場からの質問: 「定住したのは縄文の方が大陸より早い」というお話がありましたが、知識がないので「本当かな?」と、ちょっと腑に落ちないところがありまして……。単に経済レベルの問題で、余裕がないから発掘や研究が進んでいないからということではないのでしょうか。

小林達雄: 部分的修正はあっても、今日お話ししたようなことは、あまり訂正しなくもいいと思います。物理化学的な方法で年代も測定しています。その基本は「地層累重の法則」というのですが、今日の雪は昨日の雪の上に積もりますね。下にある層の方が古いのです。ずっと掘っていくと雪がない層が出てくる、地面が出てきます。そうしてわかったわけですから、いい加減な比較ではないのです。

私は「土器をつくったりして、定住的な村の生活に入ったのは大陸側より、群を抜いて早かったんですよ」とはお話ししましたが、「高かった」とは言っておりません。これはとても大切なことです。

会場からの質問: 「モニュメントは世界観だ」というお話がありましたが、祭祀が生まれてきた背景とモニュメントの関係は、どう考えればいいのでしょうか。

小林達雄: 密接にかかわっていると思います。祭りというのは人間にはつきものですね。一所懸命努力をすれば効果は上がります。腕は上がるけれども限界があります。例えば走り高跳びで2m50cm以上なんかは、普通の人は到底超えられない。それ以上超えようと思ったら、祈るんです。でも祈ったって超えられない。全く別の手段、棒高跳びにしないと越えられないのです。全く別のことで勝負しないと超えられないのです。

棒高跳びでも超えられない高さがありますね。そのときには、やっぱり祈るんですよ。人は願望を捨てません。願望を捨てないとき、最後は神頼みする。限界を超ええるために祈ったり、儀式やまじないをしたりするのです。これは世界中どこにでもあるのです。

私たちはもう祈らなくなったじゃないですか。「こうしたい」と思ってもすぐ限界が見えて、非常に悲しいことだけれども自分の能力とは別に人間としての限界を生理学的に自覚してしまうので、祈りもしない。極端になると新興宗教になっていきます。それで救いを得られる人たちは、それはそれでいいかもしれないけれど、そうでない人たちは非常に現実的に「これは可能か不可能か」という場面に遭遇しては諦めていくのです。

ところが縄文人は諦めないのです。私の言う「第二の道具」というのがあるのです。第一の道具というのは、魚をとったり、獣をとったり、煮炊きをしたり、自分たちの肉体を維持するのに必要なカロリーを摂取するための道具です。釣り針も、槍も、弓もそうです。

けれど、そうではない道具があるのです。土偶や石棒がそうです。あれを使って魚はとれません。弓の矢の先につけるやじりを土でつくったりするのもそうです。そんなの刺さるわけがないじゃないですか。でも、土でつくるんです。これを私は「第二の道具」と呼んでいます。

「第二の道具」は心の働きと結びついて、希望を失いかけるような局面でも諦めないで祈る、まじないをするときに使う道具なんです。

例えば今、私たちは神社にお参りするとき、小銭がなかったら「今日は(お参りを)遠慮しておこう」と思うのです。小銭を入れないでお参りをした人に、「そうかそうか、俺にお参りしてくれたのか」なんて思う人のいい神様いませんよ(笑)。子どものころから親に連れて行かれると、ちゃんと親が小銭を用意しておいてくれて、それをポンと入れてお参りするわけです。今、私が孫を連れて行けば、ちゃんとそうするわけです。私は信心深くはないのですが、そうしたことは刷り込まれているのです。

神に祈ったりまじないをしたりするときには、手土産、供物がないとだめで、ちゃんと用意するのです。ただ単に日常的に、「おい、頼むよ、神様」と言ってもだめなんです。ちゃんとした格式に則った祈りをしたり、儀式を行ったりする、それが祭りなんです。だから、どんなところにも祭りがあって、縄文人もいっぱい祭りをしています。その証拠に第二の道具の種類がいっぱいあるのです。


該当講座

『縄文の思考』〜日本文化の源流を探る
小林達雄 (考古学者/國學院大學名誉教授)

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