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「世界のアンドー」の発想力と実行力はどこから生まれたのか

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更新日 : 2008年02月06日 (水)

第2章 この家には建築家の強い意志がある

安藤忠雄
約4年間の世界放浪の旅を終えて、 1969年に大阪に戻り、建築の仕事を始めるが、なかなか依頼は来ない。そこで、あちこちの空き地を回ってプランを描き、所有者に「こんなものを造りませんか」と提案して回ったというから、たくましい。20数坪の小さな家をいくつか手がけるなかで、1975年に設計したのが、安藤の初期の代表作といわれている「住吉の長屋」である。

住吉の長屋は中庭を抱くようにつくられたコンクリート打ちっ放しの小住宅。冬は寒く、雨の日は中庭を通ってトイレに行くにも傘がいる。近代建築では機能は流れるようにつくることが原則だが、その原則からはかけ離れている。

1978年、住吉の長屋が吉田五十八賞の候補になったとき、審査委員長の村野藤吾がこの家を見にきた。村野が帰り際、「悪くはない。しかし、つくった建築家より、つくらせて住み続けている施主のほうが偉い。施主に賞を与えるべきだ」という逸話が残っている。

安藤が大阪で仕事を求めて歩き回っているとき、サントリー元会長の佐治敬三(故人)との出会いがあった。その佐治から美術館の話が出る。当時、小規模な住宅の設計しか手掛けていなかったため、躊躇する安藤に、佐治は「失敗しても命まではとられない。頑張れ」と喝を入れたという。しかし、佐治を「住吉の長屋」に案内したら「住みにくそうやな」とはっきり言われ、この話はこれで終わりだなと思ったそうだ。

ところが、佐治から次の日に電話があった。曰く「あの家には夢がある、建築家の意志がある。これに感動した。美術館を任せよう」。歴史家の伊藤ていじも、同様に安藤建築を評価する文章を朝日新聞に寄せている。

佐治敬三たちから「お前は暴れん坊だが、理にかなった話をする、少なくとも面白い。青春を生きろ。青春とは年齢ではない、目標を持って生きていれば青春だ」と教わった安藤は「目標は自分で探せばいい、それならエリートでなくてもできる」と発憤する。

天保山ハーバービレッジのサントリーミュージアムは、佐治の「領域を超えなければ面白くない」という言葉通り、前の大阪市の敷地のうえにはみ出すような建物を設計。異例の建築を実現させるためには、当時の運輸省と建設省双方からの許認可が必要だったが、どちらに対しても相手の省庁はすでに了承しているような口振りで説明し、了解を得た。いわば、縦割り行政が実現させた建物である。

これに限らず、建築設計の醍醐味はいろいろな問題をかいくぐっていく面白さだと、安藤は言う。

この建物と海との間はワイヤーロープを張ってあるだけ。完成後、「ロープをくぐって子どもが海に落ちるんじゃないか、危ないんじゃないか」とクレームが出た。

世界を巡る旅で「誰も助けてくれない、自分で考えて生きていかなければならない」という体験をした安藤には「人に命を守ってもらう」という日本人の安全に対する考え方は馴染まない。日本人はそろそろ島国根性を捨て、アジアの一員、地球の一員とならなくてはならない。それには一人ひとりが「責任ある個人」にならなければいけない、と語る。

(文・フリーライター 太田三津子)