書籍

カフェブレイク・ブックトーク

今後の開催予定

次回の開催は、10月を予定しています。日程が決まり次第、本ページにてご案内致します。

カフェブレイク・ブックトークとは

オープン当初からライブラリーのコレクション・ビルディングに関わってきた澁川雅俊フェローによる「ブックトーク」を9月から継続的に開催して参ります。

美術館や博物館にもギャラリートークがあるように、当ライブラリー施設の書籍についても解説を含めたトークの機会を新たに設け、「ライブラリーが最近架蔵した注目の本」ほか、読書の魅力や新たな視点を皆様にご提供できればと考えております。

このトークは、ライブラリー会員以外の方もワンデーチケット(2,000円)のご利用で、お申込なしでご自由にご参加頂けます。

開催日にライブラリーにお越しの際は、是非、ご参加下さい。〈カフェブレイク〉ですので、飲物を片手に気軽においで下さい。スピーカーの澁川氏もコーヒーを飲みながらお話したいと申しております。

  • 講師:澁川 雅俊(アカデミーヒルズフェロー/前慶應義塾大学環境情報学部教授)
  • 開催場所:六本木ライブラリー グレートブックスライブラリー
  • 参加料:無料

カフェブレイク・ブックトーク第7回 2008年6月5日(木)15:30〜16:15
にじみ出る素養〜「品格」を問う

国家の品格

◆品格本の多くは、名前負けしているか、読者をミスリード

最近「○○の品格」などという書名を冠した本がたくさん出版されています。それらはみな「品格」を問い、「品位」を正し、「気品」の源泉を求めていますが、さてどのような議論が展開されているのでしょうか。

この種の本は2005年頃から急に増えています。その理由はその年に『国家の品格』(藤原正彦著、05年新潮社刊)が出版され、それがミリオンセラー(48刷で263万部)となり、「国家の品格」が流行語大賞を獲得したからでしょう。以降それにあやかり、「○○の品格」が相次いで刊行されるという、ブームを生み出したのです。

ところで書名はその本の内容を端的にかつ十全に表すべきものですが、読者を惹きつけるかどうかという観点からすれば、最初に目がいくところですから、大事です。しかし品格本の多くは、名前負けしているか、読者をミスリードしています。

福澤諭吉著作集第3巻

福澤諭吉著作集第4巻

◆なぜいま品格が問われるのか

品格本についてはその書名の字面にこだわるのではなく、なぜいまそれが問われなければならないのかをよく考えて読む本を選ぶべきでしょう。品格本ブームの背景に、船場吉兆の「使い回し」などの食品偽装問題やコンプライアンス違反、防衛庁事務次官の汚職や年金処理における行政の怠慢や「後期老齢者医療制度」におけるネーミング、連続する衝動的な殺人、予備校による補習授業やモンスター・マザーの学校介入、サブプライム・ローンやオイル投機などの拝金志向の蔓延、エトセトラ、エトセトラと「どうしてそうなるの?」といったことが頻発している世相があるからです。

品格とか品位とか気品というのは、私たちの厳しい日常生活や人生を平穏無事に生きたいという願いを実現しようとするプロセスで生まれた概念で、難しい現実との戦いをバックボーンとした存在感であり、そうという気概のことです。そういう気概やプレゼンスをもっている人たちが少なくなった。そういう人たちが少なくなったので組織や集団の品格も低下した。したがってそういう組織や集団が作り出すモノやサービスも品位や品質も落ちた。そういう状況を改善しなければならないというのがいま問うことの理由で、どうしたら品格を高めることができるかがこの種の本のブームの奥底にあるわけです。

国家〔上〕

アダム・スミス

国富論〔1巻〕

道徳感情論〔上〕

商売繁盛大鑑

渋沢栄一と〈義利〉思想

◆ 何でも好きな本を読む

いまから130年前に、福澤諭吉は『文明論之概略』(『福澤諭吉著作集第4巻』、02年慶應義塾大学出版会刊)の中で「文明とは人の安楽と品位の進歩を云うなり」といっています。この論文は、長い間に培われた封建社会の因習から日本人自らを解き放ち、19世紀欧米の政治・経済・社会体制をグローバルスタンダードにして新しい日本を創成するという気概の重要性を説いた評論です。そういう気概を養う方法として福澤は『学問のすゝめ』(『福澤諭吉著作集第3巻』、02年慶應義塾大学出版会刊)の中で、「或は人の言を聞き、或は自ら工夫を運らし、或は書物をも讀ざる可らず」と唱えています。

ブックトークですからここでは何をどう読むかに限定して話を進めますが、こと私たち人間の品格の問題についてはハウツー本などのような即時的実利性を求める場合に適している類の本では用をなさないでしょう。品格は深い素養からにじみでるものであり、それは古来「古典を読む」ことによって叶えられるというのが通説です。では品格を養う古典とは何かということになります。

たとえば国家の品格というテーマであるならばプラトンの『国家〔上・下〕』(藤沢令夫訳、岩波文庫1979年刊)でしょうか。資本主義社会の品格というテーマならば、今後の経済成長の目的を明確にし人間の本当の幸せを追求した最近の書『アダム・スミス』(堂目卓生著、中公新書08年刊)が注目しているようにアダム・スミスの『国富論〔全4巻〕』(水田洋監訳/杉山忠平訳、岩波文庫2000-01年刊)だけでなく『道徳感情論〔上・下〕』(水田洋訳、岩波文庫03年刊)も読むべきであるとか。企業の品格という点については、『商売繁盛大鑑』(宮本又次他監修、足立政男他編、1984-85年同朋社刊)、あるいは新刊の『渋沢栄一と〈義利〉思想』(于臣YuChen著、08年ぺりかん社刊)がいいとかいうことでしょうか。さらに人としての生き方ということであれば、『アランの幸福論』(斎藤慎子訳、07年ディスカヴァー・トゥエンティワン社刊)か、ヒルティの『幸福論〔全3巻〕』(岩波文庫、1993年刊)とかを掲げることでしょうか。

「教養」とは何か』(阿部謹也著、1997年講談社現代新書)と『移りゆく「教養」』(苅部直著、07年NTT出版刊)は、教養の中味は時代時代の個人の生き方と同時代的世間とのかかわりで決まってくるとしています。平たくいえば、常識とか、コモンセンスということになりますが、『移りゆく「教養」』ではそれを養うための本について著者はこう書いています。

「…本の読解が、大きな役割を果たすのは、時代が移っても変わることはない。読書はやはり〈教養〉へとむかう踏み台となり、生涯つづく〈教養〉の営みと伴走しながら、続けるのにふさわしい営みなのである。しかし…〔その営みは〕書物や、あるいは音楽や映画や漫画〔などいろいろなもの〕にも接しているのが一番…」。

アランの幸福論

幸福論〔1巻〕

「教養」とは何か

移りゆく「教養」

※詳細レポートは、academyhills noteにて、掲載しています。

カフェブレイク・ブックトーク第6回 2008年5月14日(水)15:30〜16:15
「源氏物語千年」

円地文子の源氏物語(1)

新源氏物語(上)

あさきゆめみし

◆源氏を読む

このブックトークでは源氏本文の現代語訳、与謝野晶子のもの(角川文庫全3巻)谷崎潤一郎のもの(中公文庫全5巻)円地文子のもの(集英社全3巻)田辺聖子のもの(新潮文庫全3巻)、そして瀬戸内寂聴のもの(講談社文庫全10巻)を中心にしてライブラリーにある関連の本を紹介しました。

まず源氏は写本や江戸時代の版本によって現代に継承されました。写本の様子については『かなの美』(京都国立博物館編、96年大塚巧藝社刊)で、版本については復刻版『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦作、歌川国貞画、88年ほるぷ社)と『絵とあらすじで読む源氏物語』(小町谷照彦編著、07年新典社刊)で紹介しました。

源氏がいまでは世界中に知られていることについてはウェイリーの英訳“Tales of Genji”(Charles E. Tuttle社刊)『国境を越えた源氏物語−紫式部とシェイクスピアの響きあい』(岡野弘彦著、07年PHP研究所刊)を取りあげてお話ししました。日本で、まんが『あさきゆめみし』(大和和紀、講談社刊)を見てこの物語を知った人たちも少なくないようです。
でも原文たとえば、対訳『源氏物語〈上下〉』〔日本の古典をよむ〕(阿部秋生校注・訳、08年小学館刊)でなくとも、一生に一度は現代語訳で読んでおきたいものです。私は最近読んでみて、じっくり愉しむなら寂聴、すばやく読みとりたいなら円地だと思いました。"

全訳源氏物語

源氏物語〈巻1〉

講談社文庫 源氏物語(全10巻)

源氏物語と和歌を学ぶ人のために

源氏物語事典

◆和歌と有職故実(ユウソクコジツ)

現代語訳でそれを読むにしても、本当に物語を愉しむために幾つかの要件があります。その一つは和歌による想いのやりとりを理解することです。このことは源氏に先行する『竹取物語』や『伊勢物語』などの王朝物語を読む時にも同じですが、『源氏物語と和歌を学ぶ人のために』(加藤睦・小嶋菜温子編、07年世界思想社刊)などにはそのことが書かれています。また物語の舞台が千年前のことですから同時の政治・経済・社会体制や自然・文化・生活などのこと、いいかえれば風景、建物・造園、室内装飾・調度品、衣装・小物、儀礼、学芸・文具、旅、食べ物、受贈品、病気・医療、信仰、政治体制・権力・財力などなどの有り様を少しでも知っておきたいものです。現代語訳の著者たちは、注釈を付けることによって読者の理解を扶けていますが、ライブラリーには『源氏物語事典』(松田孝和ほか編、02年大和書房刊)などという源氏にまつわる有職故事・歴史・地理・文学に関する参考書があります。

また最近では、そうしたことどもを個別的にテーマとした本がたくさん出版されています。たとえば『季語で読む源氏物語』(西村和子著、07年飯塚書店刊)『源氏物語と東アジア世界』(河添房江著、07年日本放送出版協会刊)『光源氏が愛した王朝ブランド品』(河添房江著、08年角川書店刊)『京都源氏物語地図』(角田文衛・紫式部顕彰会、07年思文閣出版刊)『源氏物語の時代〜一条天皇と后たちのものがたり』(山本淳子著、07年朝日新聞社刊)などなどです。

文読む姿の西東〜描かれた読書と書物史

源氏物語絵巻〜もうひとつのみやび

絵草紙源氏物語

◆ 物語絵で愉しまれた源氏

『文読む姿の西東〜描かれた読書と書物史』(田村俊作編、07年慶應義塾大学出版会刊)には、お付きに物語を読ませ、その絵巻や画帖を愉しんでいる姫たちの読書の様子が取りあげられています。それは昔の源氏読書姿の一つだったのですが、源氏絵の制作を促進したもう一つの要因は物語が彩色に優れていることでしょう。風景、造園、建物、室内装飾、衣装・小物などの彩りが豊かで、絵師たちの創作意欲を掻き立てられたに違いありません。

現存する最も古い源氏絵は、国宝に指定されている『源氏物語絵巻』で、平安末期に制作されたものとされています。その図版は、『よみがえる源氏物語絵巻』(NHK名古屋「よみがえる源氏物語絵巻」取材班篇、06年日本放送出版協会刊)に掲載されていて復元絵とともにいつでも鑑賞できます。『源氏物語絵巻〜もうひとつのみやび』(清水婦久子解説、07年木版本源氏物語絵巻刊行会刊)は徳川美術館と五島美術館の絵巻を模写し、それを基に木版刷りしたものの図録です。

その他にライブラリーには『源氏物語〜豪華「源氏絵」の世界』(秋山虔・田中榮一監修、88年学習研究社刊)『九曜文庫蔵源氏物語扇面画帖』(中野幸一編、07年勉誠社刊)、『源氏物語』(広瀬[イエ]サ子著、96年東芝EMI株式会社刊)もあります。 そうした古来の源氏絵について最近では美術史や中世国文学のテーマとして取りあげられるようになり、『源氏物語絵巻の謎を読み解く』(三谷邦明・三田村雅子著、98年角川書店刊)『源氏物語と江戸文化〜可視化される雅俗』(小嶋菜温子他篇、08年森話社刊)などが出版されています。

なおまた、現代語訳には現代の日本画家による源氏絵というべき装画や挿絵が施されていて読者の目を愉しませてくれています。なかでも、田辺聖子の『絵草紙源氏物語』(79年角川書店。84年角川文庫)につけられた岡田嘉夫の妖艶な挿絵は傑作です。

「源氏物語千年」の詳細レポートは、academyhills noteにて、掲載しております。

カフェブレイク・ブックトーク第5回 2008年4月8日(火)15:30〜16:15
「辞書・辞典の季節」

2月から4月にかけて、新聞の出版広告や出版販売情報誌、さらに書店の店頭に平積みされているものに辞書や辞典(以下「辞典」)がいやに目立ちます。4月は、私たちにとってもう一つの年の始まりで、就職、入学、進学の月です。それらは児童・青少年にとって人生の新たなスタートの月です。辞典の季節はこの時期と重なります。つまりそれらは季節品で、旬の商品なのです。もっとも販売されるものはすべてが新刊とは限りません。改訂版・再版・重版・再刷などのものが含まれています。

● 辞典の数って、どれくらい?
ここでは国語辞典と日本で編纂された外国語辞典に限りますが、どれくらい流通しているかをまず調べてみると、08年3月末で4,200点ほどありました。結構多い数ですね。諸外国でも同様に自国語の辞典が流通しているわけですから、世界では相当な数になることが推測できます。言語別に調べてみるとこのようになります。漢字辞典を含む日本語辞典は、およそ2,300点です。ですからおよそ1,900点が外国語辞典となります。その中で最も多いのが英和・和英辞典で約1,100点。次いで中国語、ドイツ語、フランス語、朝鮮語、スペイン語、ロシア語、イタリア語となり、それらの合計が690点ほどです。残り300余りにチベット語を含むアジア諸言語、ヨーロッパ諸言語、アフリカ諸言語、ラテン語、エスペラント語などが含まれています。こうしてみると国内で購入できる言語辞典は確かに多種の言語をカバーしていますが、世界の言語体系数は、一説では5,000などといわれていますから、すべての言語に辞典があるとはいえません。

『広辞苑』(岩波書店)

『大辞林』(三省堂)

● いろいろな国語辞典

『日本国語大辞典』(小学館)

私は辞典のことをこう考えています。それは、私たちの身の回りに存在するあらゆるモノやコトに付けられた呼び名のすべてを集めて、記録して、まとめ上げた本である、と。たとえば『日本国語大辞典』(小学館)はそれらのモノ・コトの日本語のことばを最大限集めて、ことばの五十音順に並べ、日本人の認知・認識したことを簡潔に記述しています。この辞典はわが国最大の国語辞典ですが、一昨年秋にその三版が出版された『大辞林』(三省堂)や今年初めにその六版が発売された『広辞苑』(岩波書店)はそれに次ぐ大辞典です。それらは机上大辞典などと呼ばれることもありますが、その他に学童・生徒向きや家庭や職場に身近に備えておく簡易辞典が多数出されています。それらは確かに小振りで簡単に持ち運びができ、扱いやすいのですが、辞典の本質を考えると、定価8,000円程度のものなので職場や家庭にせめて机上大辞典の一冊備えておきたいものです。

白川静の『字統』

『字訓』

『字通』

『類語大辞典』(講談社)

『日本語大シソーラス』(大修館書店)

『日本国語大辞典』

そういった総合国語辞典のほかに、これは日本語体系の特性に基づくものですが、漢和辞典があります。漢字はかつて中国から伝来し、日本語表記に最初に使用された文字で、いまでも文章表現に不可欠です。漢和辞典は存在する限りの漢字を集めて、それぞれの意味・発音を記述し、文字形を構成する線や点の分類順に並べられて編成されています。漢和辞典では諸橋徹次の『大漢和辞典』(大修館書店)が最大のものですが、白川静の『字統』『字訓』『字通』(いずれも平凡社)などが代表的なものです。最近出版されたものでは、『漢字源』〔改訂四版〕(学習研究社)『日本語漢字辞典』(新潮社)などがあります。

日本語の辞典にはそれらの他に、特殊辞典とでも呼ぶべき辞典があります。幾つか例をあげると、たとえば類語辞典、古語辞典、新語辞典、外来語辞典、方言辞典、隠語辞典、発音辞典、擬音語辞典などです。それらの名称からその内容がおおよそ推測できるでしょう。

『大漢和辞典』(大修館書店)

『漢字源』〔改訂四版〕(学習研究社)

『日本語漢字辞典』(新潮社)

普段あまり使われていない辞典を紹介すると、『類語大辞典』(講談社)『日本語大シソーラス』(大修館書店)などは、総合国語辞典ではできないことができます。たとえば「遠くの山際が満開の桜に霞んでみえる」を別の表現で表したいときなどにこの種の辞典を上手に使うと、いとも簡単に「満開の桜が遠くの山際を煙らせている」と書き改めることができます。つまりそれらは、ことばが背負っている概念、ものごとを分類し、同じものごと、あるいは類似のものごとを表すことばの集合を体系化するという意図で編纂されているからです。

またこれも最近出版されたものですが、たとえば『日本語オノマトペ辞典』は、〈ぴっかぴか〉の一年生と〈ぴっかぴっか〉の付き添いのお母さんを意味の上で区別しています。

● 電子辞書・インターネット辞書

先だってある新聞のコラムに、「最近の高校生は英語の単語を調べるとき大概電子辞書を使うのが普通ですと語った高校教師にあきれてものが言えなかった」書いてあるのを読みました。しかし携帯用ということに限れば、それは大変便利です。いまの辞書は四、五万円出せば、卓上国語辞典や卓上英和辞典はじめ、幾つかの特殊辞典や百科事典や専門辞典の一つ、二つが搭載されているものが手に入ります。また『日本国語大辞典』なども契約を結べば自宅のパソコンで使えるようになっています。聞きかじりでいい加減に覚えたことばを乱用されるより、この種の辞書で確かめる習慣がつく方がいいと私は思うのです。(以上、要約)

「辞書・辞典の季節」のレポートは、academyhills noteにて全文掲載しております。

カフェブレイク・ブックトーク第4回 2007年12月13日(木)15:30〜16:15
「ギフトブックス」

◇クリスマスの贈り物

● 悩ましい贈り物
クリスマスが近づいてきました。それは贈り物のシーズンです。街々の商店はそれにふさわしい商品を競って飾り立て、インターネット・モールでも工夫を凝らしてラインアップを掲示しています。それは気持ちを華やがせますが、一面悩ましい時期でもあります。あなたは今年、親しい人たち、愛しい人たちに何を贈りますか。

通販商品の贈り物ランキングを調べてみたところ女性から男性への贈り物で多いのはセーター、手袋、マフラー、ネクタイなどでしかも手編みや手作りのものをという回答が多く、次いで手作りケーキや手料理、子どもたちへの玩具類(ゲーム機・ぬいぐるみを含む)、バッグや時計やライターなどの男性用小物類、そして好きな(自分の、それとも相手の?)アーティストのCDと続いていました。男性から女性への贈り物では、有名菓子店のケーキ、洒落たレストランへの招待が上位を占め、次いで子どもたちへの玩具類、セーター・手袋・マフラー、花束、アクセサリー・時計・バッグ類、香水などと続きます。男女間で多少ランキングの差異はあるものの、いずれにせよ食べ物か衣類か小物類、そして子どもへの贈り物は圧倒的に玩具類が多いようです。

ところで、贈り物は贈る方も贈られる方も豊かな気持ちにさせてくれるものですが、その豊かさ、あるいは豊かな生活の一シーンとして、私は身近にいつも本がある家の場面をイメージしています。

● プレゼントに本を贈る
私にこんな経験があります。いまから25年前、英国に出張したとき、ケンブリッジのある古書店の書棚に並べられていたチャールズ・キングズレー(Charles Kingsley)の『水の子どもたち』(原題:The Water Babies. London, Raphael Tack & Sons, LTD, 〔1908〕)を見つけ、あることを思い出して懐かしさのあまりについ手に取ってみました。

懐かしかったというのは、小学校5、6年の頃にNHKのラジオ番組で、たぶん当時阿部知二(英文学者、『白鯨』、『宝島』、『嵐が丘』、『高慢と偏見』ほかの翻訳や小説も書いている)訳で出された『水の子』(岩波書店1952年刊)の読み聞かせを毎日欠かさず聴いていたことを思い出したからです。その古書店にあった本は挿画本で、19世紀後半から20世紀前半に活躍した米国の女流挿画家マーベル・ルイス・アットウェルのカラー挿絵6点と多数のモノクロ・カットが入っており、古びてはいましたが、可愛い本でした。家で子ども文庫を主宰している妻への土産にそれを買いました。家に帰ってきっかけとなった思い出話をしながらその本を一緒に開いて見はじめたとき、見返しの遊び紙に書かれていた一文に気づきました。それは“To Mary〔Mary Belcher〕 with love from Joan and Betty”というものでした。

つまりそれは、ギフトブックスだったのです。献辞入りの本は洋古書の中によく見つけられます。私の挿絵入り物語コレクションには、その種の書物が結構あります。

◇ギフトブックス

● ギフトブックス
仕事柄でしょうか、旅先で本屋を覗くというのが私の楽しみの一つです。というよりそれが最近では旅行の定番行動になっています。

この11月末に国際的学会に招聘されてドイツのハレという街にあるマーチン・ルッター大学に行ったときも、昼食後街に出て教会広場に出かけてみました。その広場はクリスマスの準備で大にぎわいでしたが、そこに隣接した書店に入って、このカフェブレイク・ブックトークを念頭に店内ブラウジングをしました。

クリスマスを間近に控えた時季だったので、ギフトブックのセールに力を入れていたように感じました。そしてその中から一点買い求めました。それは『グリム兄弟の童話と昔話』(‘Die Kinder- und Hausmaerchen der Brueder Grimm’ Der Kinderbuch Verlag, 2003)という挿絵入り本で、ヴェルーナー・クレムケという挿画画家の彩色フルページ木版画12枚とモノクロ木版カット多数。

クレムケは:1917年、ドイツ・ベルリンのヴァイセンゼーに生まれる。第二次世界大戦前はアニメーターとして、戦後は東ドイツで主に画家・イラストレーターとしてグラフィックデザインや舞台美術など幅広く活躍する。絵本や児童書など子供向けの仕事を何よりも大切にしていたといわれる一方で、大衆娯楽雑誌『Das Magazin』の表紙を1955年から35年にわたり毎月担当していたことでも知られている。1994年死去。享年77歳。近年日本でも人気が高まり、2005年春には京都と東京で展覧会が開催された。2007年はクレムケが生誕して90年の節目を迎え、彼の故郷やドレスデンなどで記念の展示が開かれている。

書店でギフトブックス・コーナーを常備しているのは英米に多いようです。あるときアイルランドのダブリンの新刊書店で気づいたことがあります。それは〈GIFT BOOKS〉と表示された2連ほどの書棚のことです。この種のコーナーは日本の書店ではあまり見かけませんので、どんな本が陳列されているのかと興味を覚えて、よく見てみました。

品揃えの主力は、一言でいうと少年少女向け図書(最近の用語では‘ジュヴィナイル・ブックス’)で、内容的にはハリー・ポッター風のネオ・ファンタジーからケネス・グラハム作、E.H. シェファード挿画の古典的名作『たのしい川べ』(Wind in the Willow)の復刻版まで新旧のファンタジー名作まで含まれていました。それは総じて岩波書店の少年・少女向けシリーズに収録されている内容でしたが、本としてはもっと魅力的なもので、内容にふさわしい造本で、豪華本とはいわないまでも愛蔵本型のもの、あるいは人気イラストレーターの挿絵、あるいは挿画本が多く、したがって普及版よりも高価なものが集められていました。

国内ではどうでしょうか。ちょっと調べてみると、幾つかのオンライン書店に幼児向けの絵本のギフト・ブック・ページがあるだけで、現実の書店ではほとんど見受けられません。そこで知り合いの本屋さんになぜそういう特設コーナーがないのだろうか尋ねてみました。理由のひとつはわが国の出版と本の流通事情にあるようでした。つまり新刊書の出版量があまりにも多いことと書店の売り場面積が狭い関係で特設コーナーを置きにくい。そしていまひとつは、読書が個人個人の趣向に基づくものであり、そのモティベーションや関心の多様性がギフトブックスの品揃えを困難にしているとのことでした。

紀伊國屋書店の松原治氏は、書店の役目を農業に喩えてその経営の指針をこう説明しています。本屋は商品としての書籍を右から左に動かすことによってその役割を果たせるものではなく、〈耕作〉することによって人びとの養分となる食物を息長く育てる気概と努力が必要、と*。そうした理念からすれば、〈本離れ〉が始まる時期の子どもたちへの親心が発揮できる環境を書店現場で見過ごされてしまっているのではという疑念が浮かびます。大量の書籍が刻々と出版されている現状で、書棚管理の困難なことはわかりますし、人と本のマッチングはむずかしいことで、しかもこの場合贈る人と贈られる人と本との多重な合致が理想とされるのでさらに困難さを増すわけですが、書店はその問題解決の一端を担わなければならないはずです。

※紀伊國屋書店会長松原治氏は、「私は書店経営は商業ではなく、農業だと思っている。種をまかなければ実らない。それも一年や二年で成果がでるものではない。子どものころから本が好きになるように育てて行く必要がある」と述べている。この言説は、2004年1月日本経済新聞「私の履歴書」の第1回に示され、同エッセイは同年6月に、日本経済新聞社刊『私の履歴書38巻』に収録、さらに同年9月に『三つの出会い』として単行本刊行されています。

● 贈り物は、メッセージ
私たちには愛する人たちにものを贈ったり、また頂いたりする機会がたくさんあります。12月から1月初旬にかけてはそうした贈ったり、贈られたりする機会が多い時期なので、今回のブックトークのテーマをギフトブックスとしたわけですが、そう思う人たちも少なからずいるようで、前回のブックトークで紹介した詩人の長田弘が、最近の東京新聞(07.12.4)に「手から手へ親しみ贈る」というエッセイを書いています。
最近出された『ポケッツ!』(博報堂BaBUプロジェクト編、弘文堂07年6月刊)によると、いまの子どもは両親と祖父母に6つのポケット(財布)をもち、年間43万円の贈り物(現金を含む)を得ていることが示されています。玩具やゲームソフトだけでなくその何分の1かで子どもたちの知育、つまりわが子がよい子に育つ願いを込めて本を贈ると以上のものがありますが、本を贈ることを考えてみるべきでしょう。

本を贈り物にするのはなにもクリスマスシーズンや誕生日に大人から子どもたちへと決まっているわけではなく、それ以外のチャンスもあります。角田光代の短編小説(『この本が、世界に存在することに』、メディアファクトリー、2005年刊)の中にこんな話があります。セント・バレンタインの日に恋人にチョコレートに添えて本を贈った女性の話です。チョコレートだけでは想いが十分に伝わらないと考えた彼女は、中学生のときに読んで「この本が存在するのとしないのでは世界はだいぶ違うのだろう」と思って神様に感謝した本を添えたのでした。この話は幸せな結末を迎えたわけではないのですが、ちょっとおしゃれですよね。

本を贈る機会は実は結構いろいろとあります。母の日や父の日に息子・娘から両親に、お年寄りの日などなどに祖父母に、通り一遍の衣食住にかかわる物ではなく、本に託して想いを伝える。贈り物はメッセージですから、それは心がこもっているように思われませんか。

◇どんな本を贈るか

● さてあなたのセレクションは?
11月のブックトークでご出席いただいた方々に宿題を出させて頂きました。ある方は奥様に本の贈り物を選ばれ、ある方は友人に選ばれました。さて私はというと…

§浜口隆則『戦わない経営』
かんき出版 2007/04/25出版1,260円

このブックトークで取り上げる本は、新着本もしくは所蔵本から選ぶというのが原則なので、ライブラリーの書棚をブラウズしてみました。松山真之介書棚にカバーデザインに贈り物のリボンが描かれている本がありました。これは数千社の起業に携わってきた著者がビジネスの提要をアレゴリック(寓意風)の簡潔なメッセージを1冊の本にまとめたものです。帯評に、出版前の原稿の段階から多くの経営者やビジネスパーソンの間で「経営の本なのに心が癒される」と書かれていましたが、普段の仕事について見過ごしていた大事なことを思いつかせてくれるといったほうが的確でしょうか。いずれにせよ仕事にかまけて日常性に埋没してしまってその本質を見失いがちな私の40歳の息子にこれを選びました。通読しなくても、ふと思い立ったときに適当にページを開き、書かれている言説に想いを馳せてみる、多分それだけで人生の一面を深く考えてみる一時を持てるはずです。

§谷口江里也『寓話〈1〜3〉
ギュスターヴ・ドレ【挿画】アルケミア:九鬼〔発売〕 1996年〜2002年 16,550円
そのお返しに、息子からこれを貰えれば最高かな?
アレゴリー(Allegory)とは日本語では寓意といい、絵画、詩文、ショートストリーなどで自然の理や人間の業や人生の機微をわかりやすく視覚化する表現法の一つです。文学では寓話といわれ、代表的なものはイソップやラ・フォンテーヌの詩文です。そのイソップとラ・フォンテーヌの世界を、19世紀ヨーロッパで最も著名な挿絵画家ギュスターヴ・ドレのヴィジュアル(木版画340)をパートナーに、谷口江里也が読者にあたかも舞台劇を見ているような錯覚に陥らせるように再編成したものです。

実は私はドレの版画挿絵入りの童話で洋モノの本を読み始めたという体験があって、谷口のこの本を最初に手にしたとき60年前に実家のどこで、どういう姿勢でその童話を見ていたかを瞬時に思い出したのです。また寓話は子ども向けの物語と思われがちですが、この本に収録されているイソップやラ・フォンテーヌのさまざまな寓話は、いうならば人が生きるためのことばと知恵であり、私たちが普段忘れているアフォーリズム(名言、金言、箴言)に充ちています。  なお著者(編者?構成者?プロデューサー?)の谷口江里也は、建築空間設計のデザイナーで、イマジネーションと表現による変化をテーマに建築・文学・絵画・音楽のジャンルを超えた活動を展開しているアーティストのようです。

§加島祥造 『求めない』
小学館2007年 1,365円

住宅ローンを抱え、二人の娘を育てていている息子に1万数千円の出費を強いるのは気の毒。こんな本もいいなと思いました。
「求めない−すると簡素な暮らしになる」、「求めない−するといまじゅうぶんに持っていることに気づく」、「求めない−するといま持っているものがいきいきとしてくる」、「求めない−するとそれでも案外生きてゆけると知る」、「求めない−すると改めて人間は求めるものだと知る」…とタオイズム(老子の思想)に老いの活路を見出せるような言説が各ページに示されている。私がこれを選んだ理由はそれで明らかでしょう。掌中に収まる程の小冊子ですが、文人画風の著者のイラストを配したこの本の佇まいは座右の書として家の中のどこに置いても馴染むように思われる。

§『対訳竹取物語』川端康成
【現代語訳】ドナルド・キーン【英訳】宮田雅之【切り絵】 講談社インターナショナル 1998年 3,675円

連れ合いにはこの本を贈りたい。またの名を『かぐや姫』でしられている『竹取物語』は、子ども向けの昔話、または絵本とされています。しかしこれは作者不詳ですが、『源氏物語』より百年も前に書かれた創作物語です。

この物語のことは子ども達も含めて誰もが知っていますが、その一部始終を読んで、知っている人はほとんどいません。千年以上も前に書かれた物語ですから、平安の古文で長い間水茎もあざやかな大和仮名で書かれたり、それを模した木版刷りで印刷されてきたからでしょう。明治以降は、もちろん現代語で再話され、さらに挿絵が入れられたり、子ども向けの絵本に仕立てられ簡略化されてしまっています。

この本は、ノーベル賞作家の現代語訳と傑出した芸術家の作品と、日本文学の研究に一生を捧げたジャパノロジストの翻訳し、刻彫という特殊な技法で谷崎小説のすべてを飾った宮田雅之の挿絵で飾られた現代版です。10年前の出版ですが、刷りを重ねいまも手に入れることができます。

§ロバート・サブダ『冬ものがたり』
わくはじめ訳/大日本絵画/2007年/3,990円
原書:Winter's Tale(Sabuda,Robert)

私には二人の孫娘がいますが、上の孫(8歳)には『冬ものがたり』がいいかなと思っています。この本は、内容よりも形態がおもしろい。いわゆる飛び出す絵本というもので、少し前から若い女性を中心に持てはやされています。飛び出す絵本、またはポップアップ・ブックス、あるいはムーバブル・ブックスは1900年代の初め頃に流行し、紙の工芸品の域に到達したのですが、それがこの10年ほどまえから静かなブームになっています。

制作者のサブダは、ポップアップ・ブックスの第1人者で、これまでにさまざまな物語、たとえば『不思議の国のアリス』などを題材として、制作活動を続けています。
この作品は、彼のオリジナルで、シンプルでエレガントな物語を紙の白を生かして雪景色や真冬の動物たちを美しく仕上げています。なお出版社の大日本絵画は、この種の本をよく出版しています。

§クレメント・クラーク・ムア『クリスマスのまえのばん』(改訂新版)
ターシャ・テューダー【絵】/中村妙子訳/偕成社/2000年/1,470円
原書:THE NIGHT BEFORE CHRISTMAS(Moore,Clement Clarke;Tudor,Tasha)

クリスマスブックスの定番には他にいろいろありますが、下の孫(6歳)には、定番中の定番であるこの本にしました。
この『クリスマスのまえのばん』は国内の流通本として現在8種の絵本が購入可能ですが、ターシャ・チューダーのものを選んでみました。彼女は、92歳になるアメリカの絵本作家、あるいは挿絵画家で「アメリカ人の心を表現する」絵を描くといわれ、クリスマスカードはじめいろいろなグリーティングカードやポスターによく使われています。数年前にNHKが彼女のライフスタイル、50歳代半ばよりバーモント州の小さな町のはずれで自給自足の一人暮らしを始め、1800年代の農村の生活に学び、彼女の住む広大な庭で季節の花々を育て続ける生き様を紹介した番組を放映してからターシャ本が何点か出版されたりターシャ・グッズがブティックなどに出回っています。

§ギョー・フジカワ 『大人が楽しむイングリッシュ・ポエチュリー』
鈴木リョウ子訳/リーベル出版/2007年/3,150円
原書:A CHILD'S BOOK OF POEMS(Fujikawa,Gyo)

最後に孫娘たちの母親にこれを選びました。私が何故これを彼女に選んだかというと、英米の有名無名を問わず60人以上100篇あの詩作の中で、次のような短い詩を見つけたからです。

「頑張っても 上手く出来なくても
決して泣いてあきらめないで
じっと我慢してチャレンジしなければ
大切なこと 素晴らしいことはできないよ」
(フォーブス・カーリー『あきらめないで』)

幼い子どもたちが何かにチャレンジして上手くいかなかったとき、子どもの目を見ながら「失敗は成功の母」などという箴言を語り、勇気づけるよりも、失敗にめげて母にまとわりつく子どもたちに、台所で片づけものなどをしながら、この詩を口ずさむ母親の姿とそのときの子どもの心情を想い浮かべたからです。

それはちょっと子育てを押しつけるようで、厚かましいのですが、子どもの頃から詩を読み、口ずさむような知的慣習があまりない現代の若い人たちに、このようなありふれた詩集が心の余裕を見いだし、豊かな心情に浸るきっかけになるのではと考えたからです。

● どんな本を贈るか決めるのは、結構むずかしいですね!

私は以上のセレクションを通じてこんなことを思い浮かべました。
贈る本に込めるメッセージを込めよう。そういう意味で贈られる人の琴線に触れるような内容のものを選ぶべきだが、贈るべき本に決まりはない。選択肢はたくさんある。流通本も古書も。贈くる気持ちを押しつけるわけではないが、それを貰ったら人が喜ぶかどうかを余り気にしないで、1回こっきりではなく、機会があれば何度も本を贈ろう。

カフェブレイク・ブックトーク第3回 2007年11月13日(火)15:30〜16:15
「あなたは読書の秋をどう過ごされました?」

◇ 私たち日本人の読書生活
毎年秋が深まる頃に読書週間というキャンペーンウィークがあります。今年は10月27日から11月9日までの2週間でした。今回のブックトークではそれに因んで読書をテーマに選んでみましたが、「あなたは読書の秋をどう過ごされました?」という問いかけは、たとえば「あなたは正月をどう過ごされましたか」などと比べて、なぜか少々当てつけがましく聞こえます。何故でしょうか。

● 「生活の中に本があると素敵だ」
ここに一寸したデータがあります。少し前に博報堂生活総合研究所が、私たちが豊かで、幸せな日常生活を送る上で大事なものは何かということを調べました(『生活部品調査2000』)。
普段私たちは、実にたくさんのものを使い、さまざまなことがらに囲まれて生活しています。生活物資やサービス、習慣や制度や社会環境、さらに個人の能力や資質などなど、数え挙げてみると本当に多くのものごとが含まれています。この調査では、それらの一つひとつを生活部品(その調査では3千部品)とみたて、その一つひとつについて「それはあなたの生活でどのように大事ですか」と質問しています。
本ももちろんそうした生活部品の一つ。そして「本はあなたにとってどれほど大事ですかという」問に人びとはこう回答(複数)しています。

A:「本がある生活は素敵だ」(89%)
B:「本が身近にないと不安だ」(81%)
C:「本を読むことが私の今後の力点だ」(78%)

これらの回答から、非常に多くの人たちが本を豊かで幸せな生活の一部品として認識していることが伺えます。ただしそれらのデータからその評価に多少の違いが読みとれます。Aにはナイーブな憧憬を抱いている人たちも含まれています。Bは本を不可欠な生活部品だと認識しているものの行動には至らない人たちの回答です。そしてCは、本を読むことをはっきり考えている人たちですが、そのことに対する本音が滲んでいるようです。〈本音〉とは、「しかし普段思う(建前)ように読めない。ウーン残念。なんとかしなければ…」。
いずれにしても10人中7.8人というたくさんの人たちがそう思っていることにたいして「あなたは読書の秋をどう過ごされました?」と問いかけるのは、野暮を通り越して当てつけがましいようです。

● 現代日本人の読書行動とその意識
毎日新聞社は過去66年にわたって毎年私たち日本人の読書に対する意識や態度を調べてきています。今年は9月初旬に全国各地で16歳以上の人たち4800人を選び調査しました。その中間報告が読書週間の始まる前日の朝刊に掲載されています。それによると、「普段から本を読んでいる」(書籍読書率)と回答した人たちは49%、これらの人の1ヶ月の読書量は、単行書、もしくは文庫・新書で平均2冊ぐらい。「普段から本も雑誌も読んでいる」(総合読書率)と回答した人たちは75%でした。それらの人たちの1日当たりの読書時間は、平均ですが、53分でした。そうした数値は多少の上がり下がりはあるものの基本的にはここ10年ほど変わっていないようです。なおこの最終結果は08年3月に『読書世論調査2008年版』として出版されることになっています。
この調査の総合読書率10人中7.5人は、先の『生活部品調査』の「本を読むことが私の今後の力点だ」とする人たちの数値が符合しています。ということは、現代日本人の多くの人たちが自分のいまの読書生活を改善したいと考えているといってよいように思われます。

●〈読書に力点を置く〉イメージ
ところで話は少しそれるようですが、過日私はいま国立新美術館で開催されている「フェルメール“牛乳を注ぐ女”とオランダ風俗画展」に行ってきました。その展覧会に「アムステルダムの孤児院の少女」(ニコラス・ファン・デル・ヴァーイ画)が出展されていることを知っていたからです。

読書する人たちの絵は、たとえばフラナゴールの「読書をする少女」、ルノアールの「読書をする二人の少女」・「犬を膝に抱いて読書する少女」、三岸好太郎の「読書少女」・「読書婦人像」などが目に馴染んでいますが、私は〈読書に力点を置く〉の強烈なイメージをこの「孤児院の少女」に感じます。
絵の評論家は、風景の静謐さや少女の横顔に漂う気品などをごく平板に解説しています、『名画の言い分』(木村泰司著集英社07年7月刊)で著者が書いているように、この絵には何かしら生きていることの喜びを伝えているように思えます。そして具体的な物語を読みとることができます。「孤児院での課業のつかの間に立ち読みをしているこの子はこんなに真剣にいったい何を読みふけっているのだろうか」。14、5歳でしょうか、たしかに気品ある端整な横顔の少女です。その目は紙面に釘付け、カウチやテーブルの上に大判の本が数冊広げられていますが、手にしている本は8つ折の判型。それらの素材から、この子が読んでいるのは小説に違いない。それはディケンズかデュマか、それともウォルター・スコットかジュル・ベルヌか。
現代日本人が日常の今後に力点を置きたい読書は、我を忘れるような本と出会い、たとえちょっとした合間の時間でも読んでみたいということではないのでしょうか。
さて、それでは何を読むべきか。

◇ 読書論とその周辺

● 読書論
世の中に読書論という定番のテーマがあります。「何を読むべきか」というのはその重要な課題の一つです。読書論は、他の二つの課題、「どう読むべきか」と「読んで得たことを素に自分の生き方を定め、どのような世界観を養うべきか」とともの昔から、本当に昔から議論されてきました。『読むことの歴史−ヨーロッパ読書史』(ロジェ・シャルティエ著、田村毅他訳、大修館書店2000年刊)は、西欧社会を中心として人びとの読書行動や読書観を古代から19世紀まで詳しく調べています。やや学術的な分析と解説で読み終えるのに苦労するかもしれません。また『江戸の読書熱、自学する読者と書籍流通』(鈴木俊幸著、平凡社、07年刊)は、江戸中期以降の庶民の読書と出版事情について書いています。

その他の関連の書物をつまみ読みしてみると、時代と人びとの読書は概してこのように展開してきたことがわかります。中世社会では王侯貴族や宮廷人たちの教育・教養論の一端として論じられ、近世社会では為政者階級はもとより上級市民階層の人びとの教育・教養論、そして近代では、富国強兵志向を背景とした国家国民教育・教養論の中核であったと。

● 現代読書論
わが国のそれを流通本DBで検索すると455点もの本がヒットします。ライブラリーにも30点ほど架蔵されています。それらを概観すると、中世から近世までの読書論は、それぞれの社会の中核的構成員として認められた人びとの教育・教養論の一環として議論されてきましたが、現代社会では自我に目覚めた日常生活者の多様な価値感を反映してか、自己啓発、あるいは向上を願うにしても少々拡散している、といえます。

§正統派読書論
さきに挙げた『読書の方法』(吉本隆明、光文社文庫07年6月刊)、や『楽しい読書生活−本読みの達人による知的読書のすすめ』(渡部昇一、ビジネス社07年9月刊)、少し前にだされた『本は私にすべてのことを教えてくれた』(谷沢永一著、PHP研究所04年2月刊)などは、やさしいことば遣いと平易な文章で何をどう読んで、それをどう生かすかについて語っています。その意味では取っつきやすい読書論といえますが、正統派読書論の系統を引いています。とくに吉本のものは、01年初版、06年に新書版で再版、07年6月に文庫本再再出版(いずれも光文社刊)という本書の履歴があり、またその副標題に「なにをどう読むか」とを考え合わせると、読書を今後自分の生活の力点としたいと思っている人たちに随分と読まれているようです。

§読書ハウトゥ論
以上の正統派読書論はいずれもそれなりにまとまっていますが、読んでいて、なんとなく白々しい感じがします。何故でしょうか?多分それは論者の書物や読書に対する目線が高いからではないでしょうか。よしもとばななは吉本隆明の娘であるなどということを知っていると何かしら親しみが湧きますが、目線の高さはこの人たちがいずれも70年以上にわたって非常に多くの書物に接し、その中の多くの書物を読み、それらから得たものを糧として知的にも職業的にも生きながらえてきた読書人だからではないかと推察できます。普通はただ何となく「本がある生活は素敵だろう」と無邪気に憧れている人たちが多いのに、やさしくやさしく書かれているとはいえ、博本多識とのギャップが気に掛かります。
そういう正統派読書論に対して『「超」勉強法』(野口悠紀雄著、講談社95年刊)の系統を継ぐ読書ハウトゥ論があります。たとえば『本200%活用ブック』(日本能率協会マネジメントセンター、07年9月刊)は、人生の初期あるいは半ばにあってもっと自分を向上させようと願う人たち、とくにビジネスキャリア・ディベロップメントを目指している人たちの読書生活に対する、一見即席読書論なのですが、これも「何をどう読み、それを自分のキャリアアップにどう生かすか」を踏まえて助言、軽い助言が…

なおビジネス誌「Think!」でもこの春の号で、『キャリアアップ勉強法』を特集しています。

§私小説的読書論
〈私小説的〉というのは、ここでは論者の個人的読書生活に関するエッセイを意味しています。読書に関する議論は、深浅の差はあれ、本の存在と読書の意義についての洞察を基盤に論じられますが、論者個人の感性と悟性に基づいた「私にとって本とは何か」とか「私の読書」に関する著名人(とくに学者・文学者・評論家)のものが多く出版されている。その意味では一般人の読書生活誌ではなく、職業的読書人のそれで、本と読書に対する目線はどうしても高いといえます。
ライブラリーには、たとえば

などほかこの種の読書論が架蔵されています。

§本と読書について詩
ところで、個人的感性と悟性に基づく本と読書についてのエッセイと同系統のもので、ちょっと変わった本があるので紹介したい。それは東西の92名の現代文学者・哲学者たちの書物、あるいは読書に関する詩を収録した詩集です。

この詩集の編者長田弘が序詩に掲げている「世界は一冊の本」は大変味わい深いものです。

§〈一押し〉風ブックガイド
読書に関連する流通本の中で最も多いのが著名人による〈座右の書〉的ブックガイドです。そのなかには、

  • 『100人100冊100%、Vol.1:この本、私たちのイチ押し』(100冊倶楽部MOSOプロジェクト 発行人:松山 真之、07年2月刊)
  • 『東京の本屋オヤジたちが推薦する文庫101』(東京書店商業組合青年部、07年9月刊)

などのように、ごく普通の人たちが薦める〈一押し〉の本もありますが、おおかたは、文学者や学識経験者や評論家による書評集、解説集です。

などは、そのいい例でしょう。私小説的読書論の系列にある読書論ですが、その目線は随分と庶民的です。 『読んでも5万冊』のタイトルは目を惹きます。本当に生涯に5万冊も読めるのだろうかと疑って、こんな計算をしてみたくなります。5歳の時から80歳まで75年間本を読み続けたとして、年平均667冊。つまり1日ほぼ2冊読むことになります。職業的読書人ならば可能かもしれませんが、普通の人たちには「白髪三千丈」に聞こえます。また『女系読書案内』は、女性を主人公とした本の中で描かれているさまざまな女性の多様な考え方を蒐集する意図で編纂された、ちょっと類のないガイドブックでもあります。

以下のようなものもこの系統のブックガイドといって良いでしょう。

これらは日本経済新聞の毎日曜日の読書ページのコラムで、「言葉にふれる」、「様々に味わう」、「時代を読み解く」、「新しい視点」、「広い世界へ知識を拓く」などの視座視点から著名な作家や評論家、学者たちの本との運命的な出会い、本を通した著者との交流、読書の楽しみ方・味わい方を語っているエッセイを単行本化したものです。私たちの関心領域にかかわりつつそれぞれの視座視点での書物の選択に参考になるガイドブックといえるでしょう。

§こどもの本や絵本のガイドブック
読書が子どもの知育・徳育・情操教育に効果があることからこどもの本や絵本のガイドブックはむかしから結構あります。かつては児童文学者のお進めのものが多かったのですが、最近では、編集者や児童書専門書店経営者などのセンスで編纂されるものも少なくありません。たとえば次のようなものがあります。

●名著・古典解説
読書論の一つの課題である何を読むべきかの拠り所の一つにガイドブックがあります。〈一押し〉風ガイドブックにはいわゆる名著・古典も多く含まれているとしてもありますが、その選択には個人的な見解、つまり論者の好き嫌いやその人の人生にインパクトなど個人的な思い入れが強く表れています。そのようにして選ばれ、個々に論じられているガイドブックの他に、それがことの始まりと万人が認める書物(古典)、それが歴史を継承したと認める書物(名著・名作)の解説書もあります。
この系列のものは結構たくさんありますが、最近刊行されたものを挙げてみましょう。

  • 日本の書物』(紀田 順一郎著、宮田 雅之画、勉誠出版6年10月刊)

これは日本書物史上に残る82の古典をいまに生きている私たちにもわかりやいエピソードをまじえて紹介しています。たとえば、太古のロマン『古事記』、古代人の哀歓『風土記』、古代史の虚実『日本書紀』、小さな巨編『方丈記』、貴族の挽歌『平家物語』、無垢の歌『金槐和歌集』、人は石垣『甲陽軍艦』、野放図な哄笑『作日は今日の物語』、異教徒の置土産『伊曾保物語』などというキャプションが古典書の硬い鎧をほどいてくれています。また宮田雅之の切り絵挿画が、ともすれば重くなりがちな読み手の気持ちを柔らかくほぐしてくれます。巻末に現在入手可能な版刷の一覧表があるのも、便利です。
ところで世界の名著・古典となると相当数に昇るので、分野別の解説書が多い。

●岩波文庫解説目録
1927年7月岩波書店社主岩波茂雄は、「古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類を問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲す」と岩波文庫の創刊の理念を高々と唱い上げています。
とするならば、過日出版された

は、文庫本古典・名著解説といって良いでしょう。この総目録は、岩波書店が同年7月に漱石の「こころ」他23点の刊行以来80年刊行し続けてきた古今東西の古典・名著の解説書です。
同目録は、06年までに刊行された5400点以上文庫本を日本思想、東洋思想、仏教、歴史・地理、音楽・美術、哲学・教育・宗教、自然科学、日本文学(古典)、日本文学(近代・現代)、法律・政治経済・社会、東洋文学、ギリシア・ラテン文学、イギリス文学、アメリカ文学、ドイツ文学、フランス文学、ロシア文学、南北ヨーロッパ文学、その他の20の分野に分類、さらに著作者別、年代順に配列し、簡潔な文章で内容を紹介した解説目録です。巻末には検索に便利な書名索引、著訳者別書名索引が付けられており、「世界名著辞典」としても活用できる特性を備えています。

なお、最新刊文庫本については以下があり、街の書店でも無料で入手できます。

  • 『創刊80年岩波文庫解説目録2007』(岩波書店、07年刊)

◇最後に読書論の古典−の読書論
最後にこの読書論を紹介しておきましょう。

  • 『岩波文庫読書について他二篇』
    (アルツール・ショウペンハウエル著、斎藤 忍随訳、岩波書店02年10月刊)

18世紀末から19世紀半ばにかけて名を成した哲学者の読書論です。
ショウペンハウエルはこの小論で、「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく」などと、私たちの読書生活に対する数々のアフォリズム(金言。警句。箴言)を発していますが、よくそれを読むと、単なる多読排斥論ではなく、読書についてのいくつかの根元的な課題を提起し、それぞれに対して彼の考えを述べています。「本を読むことが私の今後の力点だ」と思う人たちがその力点をどのように実行するかを考えるときに、いいスタートになるのではないかと思われます。

カフェブレイク・ブックトーク第2回 2007年10月10日【サマリー】“小説は真実を伝える”

一般に小説読書を論文や論評や概説書などのそれより低くみる傾向があるようです。それは多分、その内容がつくりごと(フィクション)であり、それを読むことがエンターテイメントや気晴らしや暇つぶしに結びついているという印象が強いからなのでしょう。
いまライブラリーの新着本書棚に20点ほどの小説があります。蔵書全体では500点ほどでしょうか、グレートブックス・ライブラリーに配架されています。小説出版はいま国内では約13600点(05年)で、全新刊書の15%ぐらいですからかなりのシェアなのですが、ライブラリーの蔵書では5%程度です。この6月に実施したアンケートによるライブラリーメンバーの読書本の選好に合致しています。しかし私はそういう傾向がメンバーのみなさんのやや偏向した小説観によるものではないかという疑念をもっています。

「事実は小説よりも奇なり」とよくいわれます。それに対してあるフランス文学者は、「小説は作り事(フィクション。虚構)。それを人はなぜ読むのだろうか。小説読者は読んで楽しいことが第一だが、そこから一種の真実を感じとっている」(生島遼一『鴨涯日々』岩波書店1981年刊)と言っています。みなさんはこれまでにいろいろな小説を楽しまれましたことと思いますが、そうした経験からこの言説をどのように判断されるでしょうか?

◇ 〈おもしろい〉本を生み出す要件
小説に限らず一般に本を読んでいて時を忘れてしまったりするのはその内容を面白いと感じるからですが、私たちが〈おもしろい〉と感じる感じ方とはどういうことなのでしょうか?

「可笑しい」とか「滑稽だ」とかいったりするように読んでいて思わず笑ってしまうような時に私たちはそう感じます。しかし笑い出すようなことはなくとも読んでいて愉快な気持ちやなにか心地いい時もそう感じます。その心持ちは書かれている物語の展開に風情があるとか趣がある時にもそう表現することがあります。しかしなんと言っても、内容に興味がそそられる、惹かれる、自分でもそのことをよく考えてみたいという意欲が湧いてくる時、要するに書かれていることによって自分の内部に何かしらプラスの変化が起こっているように思える時、あるいは変化があったと自覚できた時などに「これは面白い」とか「あー面白かった」とつい口を衝いて出ます。

それでは、読者に〈おもしろい〉と感じさせる内容の本はどのように創り出されるのでしょうか? これも引用ですが、ある認知科学者がそれを生み出す要件を分析しています(佐伯胖『認知科学の方法』東京大学出版会1986年刊)。

それによるとまず〈おもしろい〉内容を生み出すには、そのテーマと内容の取り上げ方や扱い方に‘独創性’があること、次いで‘時代感覚’が大事だと述べています。前者は、もちろん人真似でなくその人独自のもの、他に類がないことです。そして後者は、いまどきのキーワードでは‘周りの空気をつかむ(あるいは読む)’ということになるのでしょうか。もっともこの学者は、時代感覚の発露は必ずしもはやりに乗ることだけではなく、それに逆らうこともあるだろうと言っています。

この学者はそういう要件を生み出す能力についても考えを進めています。それはまず。日常性と結びついたテーマを自らのしっかりした動機で選択できることから始まり、次いでテーマに関する過去の事実を徹底的に調べることができる、調べた事実を前後左右、タテヨコナナメから検討し、独自の視点からまとめあげることができ、その視点からテーマについて新しい発想をもち、新しいコンセプトを形成ができる能力が〈おもしろい〉内容を生み出す下地造りだと分析しています。何かを生み出すには感性こそが大事だと感性至上主義の考え方が蔓延していますが、それだけでは不十分だと気づかされますね。

◇ 読者を楽しませる〈おもしろい〉小説
〈おもしろい〉小説に関してフランス文学者も同様の指摘をしていますが、小説創作固有の要件を追加しています。小説家はまず日常の身の回りのものごとを明視する。その真実の認識に基づいて虚構の世界を想像し、その構えの中で物語を創り出す。そのことは近松の〈虚実皮膜〉なる言説を思い出させます。そして小説家は常にことばの芸術、あるいは魔術を駆使して、その事実を物語ろうとする。ことばの芸術とか魔術についてうまく表現できませんが、雑念が入る余地もなく読み手をぐいぐい引っ張っていく巧みな文章表現技術、とでも言ったらいいのでしょうか。

そういう風に創作された小説は、普通は日常性に埋没している私たちにものごとを感じさせるに違いありません。まして「人生をいかに生きるか」などと根元的な問題を考えている時に、その魔術に掛かるとひとたまりもないでしょう。人は巧みな虚構とことばの魔術の虜にされ、楽しみながら書かれている真実に触発されて、自分自身を考えるということにならざるをえません。かくして小説は、人びとに〈本当のこと〉を伝えてくれます。

非常に粗っぽいまとめですが、ノンフィクションが私たちに情報をもたらすのに対して、小説は私たちの情念に訴えかけ、ものごとの真髄を悟らしめる、と言えます。

ところで最後に付け加えておかなければなりません、先の認知科学者はこう言っています。先のような能力をフルに発揮して書かれても、それは〈おもしろそう〉な本が書けるだけで、〈おもしろい〉かどうかを決めるのは読者だ。だからフィクションであれノンフィクションであれ、‘優れた読者’との出会いが決定的な要件である、と。書き手にとっても読み手にとってもなかなか厳しい指摘ですね。

かつては純文学と中間小説と大衆(もしくは通俗)小説に分類されていた小説類はいま、文芸作品とエンターテイメント小説にほぼ2分されたようです。しかしエンターテイメント小説はいまさまざまなジャンルに分けられ、歴史・時代小説、ミステリー・アドベンチャー小説、ビジネス小説、SF小説、ファンタジー・ホラー小説、ライトノベル、ケータイ小説などなどと多岐にわたっています。

小説読者としての私の所見は、いずれのタイプの小説もそのテーマはつまるところ私たち人間、創作のモチーフは人間の真・善・美への希求、そしてさまざまな素材とのかかわりで想像される虚構の世界での偽・悪・醜なる営みとの葛藤を描いている。そして文芸作品とエンターテイメント小説の違いは、ひとつにはその希求の在り方、いまひとつは人の営みへの明視の在り方、そしてつくりごとの世界の構え方とことばによるそのアカウンタビリティについて読み手がどう感じるか、その差異である、と私は考えています。

◇ 新着本書棚の小説

今年の文学大賞〜『アサッテの人』と『吉原手引草』

これらは今年の芥川賞と直木賞の受賞作品。『アサッテの人』は、孤独で奇行癖がある叔父を偲んで、その人間性をテーマとした小説。奇行癖というのは、その人物が幼年時代にどもり癖があり、長ずるにしたがってどもりがなおるにしたがって、「ポンパ」、「チリパッパ」、「ホエミョウ」などの擬音的な奇声を発したりすること。文章が端整で読みやすく、それゆえにその奇行の状況はそれなりに滑稽なのだが、私は全体的に〈つまらない〉。中堅の作家達は一度読んでその滑稽さを楽しむのではなく、繰り返し読めば新しい発見があるというのだが、私は二度・三度とは読みたくない。

『吉原手引草』吉原一を誇った花魁の失踪事件を大店の若旦那を装った幕府役人が解明するというミステリー仕立ての物語。その役人は、吉原の定住者(花魁、女郎、遣手、幇間、楼主、女衒)や吉原通のお大尽などとの会話からで明らかにしていく。時代小説特有の語り口でなめらか。本筋だけでなく、廓吉原の表裏がわかって面白い。

最近の文芸作品
  • 松浦寿輝『川の光』 中央公論新社 2007年7月25日出版
  • 青来有一『爆心』 文藝春秋 2006年11月25日出版 【今年度伊藤整文学賞】
  • 角田光代『八日目の蝉』 中央公論新社 2007年03月25日出版 【今年度中央公論文芸賞】

いずれも過去の芥川賞受賞者もしくはたびたび候補者となった作家の作品。
『川の光』は「讀賣新聞連載時より空前の反響が!」という謳い文句に注目して選んだ本。読み始めて「これは‘メルヘン’!」と思った。 郊外の小川の暗渠化によって川辺の暮らしは失われたクマネズミ一家がその川上に安住の地を得るまでの冒険譚。ネズミ同志(クマネズミvsドブネズミ)の戦い、捕ネズミ動物(イタチ・鳶など)との遭遇、そして何よりクマネズミには住みにくい人間が造った街の迷路。捨てる神あれば救う神あり、仔犬・スズメ・モグラ、そして好意的なドブネズミなどとの友好。著者は、単なる社会批判ではなく、「足元で脈動する世界に優しいまなざしを向け、柔らかい魂の手触りを伝えたい」という意欲を燃やしてこの物語を大人向けに書いたという。もちろん子どもたちも彼らなりの読み方をするだろう。

『爆心』は短編小説集(6篇)である。‘短編’は概してカフェブレイク読書にはもってこい。どの短編も還暦を超えた孤老の過去の断ち切れない想い(その後をどう生きたか)を訥々と綴られている。長崎弁を交えての語りが孤老の人の心情をよく表していて静心で読めるが、それに反してもの凄み、狂わしさ(狂気)を感じる。たしかに作者は1958年の生まれだから、明らかに被爆者2世。それらの人たちを含めても現存する被爆体験者は世界の人口総数からみればごくわずかであるが、その稀有の体験がモチーフの深層にある。この時期にこの標題で出されると、原爆をテーマとした小説と考えられがちだが、この標題はむしろ鬱屈(うっくつ)した思いや忘れ去ることのできない失敗や汚点への執着が‘爆心’となっている。人は老い先短くなるとそうした執着に強く共感する。

『八日目の蝉』は、不倫相手の子供を誘拐し、追っ手に脅え、罪の意識に苛まれる一人の女と、子どもを誘拐された女と、誘拐された子どもを中心に展開されるサスペンス物語。しかしアドベンチャー・ミステリーなどのようにはらはらドキドキのサスペンスではなく、作者は物語を通じて、家族(疑似家族)という根元的な人間集団の枠組みの意味を探ろうとしている、という。不倫とか、親子関係とか、家族について男には考えつかないような視点があるのではないだろうか。この作家は、ジュビナイル作品を書いていたからであろうか、文章が易しい、わかりやすい。長編ではあるが読みやすそう。

エンタテイメント小説

『ミノタウロス』は‘異国物’のサスペンスを得意としてきた作家の新作だが、これはむしろバイオレンス・ストーリー。標題は、ギリシア神話に出てくる極めて粗暴な行為をする牛頭人身の怪物の名前。物語は、ロシア革命時期、無政府状態のウクライナ平原を駆けた3人の若者たちの乱行、機関銃つき馬車、時に飛行機を操って、当たるを幸い歯向かう敵をなぎ倒し、略奪し、女を犯すなどを描いている。ずうっとまえに映画で見た「俺たちに明日はない」を思い出したが、その映画のような趣わかずあまりの無法さに唖然。

『箕作り弥平商伝記』の作家は、東北地方の歴史・文化・伝統・風俗習慣などをレパートリーして物語を書かせたらこの人の右に出る者はいない。この物語でも箕(み)作りの青春の喜びと苦悩(差別に巻き込まれた純情秋田ッポの)と挫折の物語。箕とは「かぐや姫」を拾ってきた竹取の翁の生業で、「古来竹を素材とした農具、生活用品、建築材、楽器、茶道具や華道具など、竹は遥か昔より人々の生活文化と深く結びついていた。なかでも箕は農作業に不可欠な道具であり、種々の呪術(じゅじゅつ)性を持つ、神秘性を有する…」(ウィキペディア)とある。秋田の箕は籐を原料としているが、差別問題ではなく、この技術を突き詰めた作品と思って読んだのだが、〈期待はずれ〉。

『銀しゃり』の作者は、いま最も脂ののりきった時代小説作家の一人。時代小説といえば剣豪小説、捕物帖、武士道物語などでは、故人となったが五味康祐、柴田練三郎、山田風太郎、池波正太郎、藤沢周平などがおり、いまは平岩弓枝(御宿かわせみ)、北原亜以子(慶次郎縁側日記)、澤田ふじ子(公事宿事件書留帳)、佐伯泰英(居眠り磐音江戸双紙)など蒼々たる書き手がいる中で江戸の町人(商人・職人・勇み肌など)の心意気を書かせたら一番。本作では鮨職人の技や生活者としての生き方を描いている。江戸っ子の粋のよさを読むと、いつもすっきり、清々しい。「美しいニッポン」を感じる。

私の好きなレパートリー(書物・書店・図書館・出版)の小説

いずれもエンターテイメント小説。
『五つの星が列なる時』は、切り裂きジャックの事件のような若い女性が無惨に切り裂かれるという連続事件の背景に占星術などとう古代・中世科学思想があり、またその先に不死と富を求める錬金術が素材となっている。フィクション的にちょっと面白いのは、それを企む集団のリーダーをあのニュートンにしたことや意外性や17〜18世紀に世界の知の殿堂とされていたオックスフォードのボドリアン図書館が舞台となっていること。作家は科学ジャーナリストで、特に科学史に関心を寄せているようだが、虚構の世界の作り方が‘薄っぺら’。

『災いの古書』は、元刑事だった古書店主が殺人事件をきっかけに書名入り本の謎を解くミステリー。作家はこれまでこの古書店主を主人公として3つのミステリーを書いている。古書に関する蘊蓄に読み手は安心してひと時を委ねられるが、この小説はあまりドキドキしなかった。シリーズものを書き続けるむずかしさか、それともマンネリか。

『泥棒は深夜に徘徊する』は、同じ古書店主が主人公となる物語でも、こちらは泥棒を兼業する男を巡るミステリー。泥棒に入ろうとした家の近くで殺人事件が起こり、下見をしていた時に防犯カメラにとらえられ、その事件の容疑者となってしまう。その容疑を晴らすべくニューヨーク中を東奔西走するというコメディタッチの話。

これも作者にとってシリーズ4作目だが、好調。
『シー・ラブズ・ユー;東京バンドワゴン』は、東京下町の古書店一家を中心としたホームコメディ。四世代にわたって同居する大家族の日常生活を縦軸、古本商を横軸に描いている。短編と言うより中編4部作の構成だが、各部のストーリーは繋がっている。この物語の第二作目だが、今回もその一部にミステリータッチの物語を入れている。いずれも読んでいて心が和む。

『本泥棒』は、死神が舞台回しをする本好きの少女の物語。焚書をしたナチス政権のドイツの話で、大筋は墓地や焚書の山や町長の書斎から本を盗み、それをよりどころとして自分の世界を変えていくというもの。帯評に「『アンネの日記』+『スローターハウス5』と評され、欧米で異例のベストセラーを記録した、新たな物語文学の傑作」とあるが、私にはとても読みにくく、完読できず。

カフェブレイク・ブックトーク第1回【サマリー】 ライブラリーフェロー 澁川雅俊

9月11日(火)午後はじめてのカフェブレイク・ブックトークをしました。このプログラムは、最近ライブラリーが蔵書に受け入れたものの中で注目すべき書物について‘茶飲み話’でもしましょうかという趣意ですが、その第1回ということなので、二つのトピックスでお話ししました。一つは「なぜこのプログラムを始めたか」で、いまひとつは、「今月の注目したい本」です。

◇ なぜ、このプログラムが…?
ライブラリーは、メンバーの‘書斎’というコンセプトで03年4月に開設されました。それは19世紀のジェントリー階級の人びとがビジネスはもとよりインキュベーションもエンターテイメントにも使える自宅内の空間にその発想の基があります。そういう空間を構成するには、施設と設備、知的コンテンツ、サポートサービスなどの要件が不可欠なのですが、知的コンテンツの充実に3年の年月が掛かってしまいました。

ライブラリーの知的コンテンツの一つは、蔵書です。いま一つが知識情報の発信源であるライブラリーメンバーの皆さんですが、とくに蔵書は一朝一夕で構築することはできません。経費のこともありますが、それとは別の大きな理由があります。

このところ年間に70,000点以上の新刊書が刊行されていますが、そのすべてが「今日的な課題を扱っている質の高いテキストを書架上流れるように配する」というポリシーに適うものとは限らないからです。これは経験値ですが、少し甘めの尺度で検討してもライブリーへの適書は10%程度でしょう。その中からライブラリーはこれまで年間に3,000〜4,000点を受け入れてきており、07年3月に配架の適量限度に達しました。‘不揃い’感が少しずつ薄れ、いよいよ蔵書を‘流れるように’ディスプレイする時期になりました。

ライブラリーの蔵書はいま16,000点あります。いわばそれがライブラリーの知的コンテンツを形成している重要なコンポネーントなのですが、それらは、並べておくだけでは単なる風景の一部に過ぎません。大事なことは、働きかけによってはそれらを私たちの知的展開の‘本’(おおもと)にできることです。そういう意識を持つことができるきっかけづくりとして、ライブラリアン・ディスクの前に2〜3ヶ月ほど配架されているおよそ200点の新着本の中から〈注目したい〉、あるいは〈面白そうな〉書物を取り上げてブックトークをしてみたらというのがこのプログラムの発想です。

◇ ライブラリーの蔵書は誰がどのような規準で選んでいるの?
このこととカフェブレイク・ブックトークは密接にかかわっていますし、またメンバーの皆さんはどなたでもそれに関心をお持ちでしょう。

公共図書館での蔵書構築では利用者の読書要求と書物の資料価値の調和が重要とされています。公共図書館での読書要求は地域住民の幅広いプロファイル(世代・学歴・職業・生活意識や態度など)を反映しています。したがっていろいろな人たちの読書生活(本を読むのは好きではないという人たちの態度を含めて)に配慮しなければなりません。

それに比べてライブラリーメンバーのプロファイルは、過去に行ったアンケート結果を見ると、その多くが実業界の現場で活躍されている30〜40代の方々で、それぞれの職業あるいは活動分野での一層のキャリアアップに強い意思を持ち、あらゆる事柄に関心を寄せ、リテラシーレベルが高いということができます。

したがって、蔵書構築では、多数のメンバー(現在2,500名)にもかかわらず、読書要求の幅広さよりも資料価値の高い書物の選別に配慮することが重要となります。先に述べた「今日的な課題を扱っている質の高いテキスト」がここではその資料価値を意味しています。

〈今日的課題〉とは、その方々の「いま何が」、「これから何を」ということに対する強い意識、少し気取っていうならば、強烈な生への意識に対応することがらといって良いでしょう。そして〈質の高いテキスト〉は、学術書や研究書のことではなく、一般書ではあってもそういう人たちを納得させる内容の書物を意味しています。

ではどれがそういう書物かということになりますが、それについてはいまライブラリーの書架に並んでいる本を手にとってご覧頂く以外にお応えしようがありません。蔵書の信頼性と捉えるならば、それは誰々が選んでいるかということに繋がります。

ライブラリーではその運営に携わっている役職者(理事長、都市塾長、ライブラリーフェローメンバー)と担当スタッフが選書をしています。実践選書では蔵書がメンバーの方々の知的展開の基盤の一つであることを十分に認識したライブラリー関係者が定められたポリシーの下でそれぞれの規準を真摯に設定し(あるいは、設定しながら)、これを行っています。私はその中で、日々の選書もしながら蔵書構築のコーディネータのような役割を果たしています。

◇ 今日的な課題を扱っている書物をどのように見つけ出すの?
過去のアンケートなどからメンバーの皆さんのライブラリー利用目的を考察すると、やはりビジネス分野でのキャリアアップへの関心が高いようです。マイライブラリーゾーンの書架にはしたがってビジネス書が多く集められています。新刊書棚でも、たとえば日本経済新聞社、ダイヤモンド社、東洋経済新報社、日経BP社、PHP研究所などのものが多く並んでいます。ライブラリーではそれらの出版社の新刊書を1点1点選書するのではなく、ブランケット・オーダー(一括発注)しています。その理由は、それらの出版社がいま現に就業している人びとが直面している状況と問題点に関する考えや問題解決の方法について常に新しいトピックスを発信してきているからです。

しかしメンバーの方々のキャリアアップの先にあることを斟酌するとビジネス書に集中するわけにはまいりません。もっと広い分野、いうならば森羅万象の動向や現状を背景にした今日的課題をも気に掛ける必要があります。ではそういう幅広い領域の中でライブラリーが受け入れるべき新刊書をどのように見つけ出しているのでしょうか。

ライブラリー関係者は新聞の新刊広告・書評、雑誌に掲載される書評をはじめ、常にさまざまな新刊書情報媒体に目配りしています。それらから得られる情報を基に選書することもありますが、もっとも基本的な選書ツールは「ウィークリー出版情報」という新刊書目録です。これは月4回の発行で、書物の最も基本的な分類法のひとつである日本十進分類法よって最新刊書のすべてが書誌データ(著者・書名・出版社・出版年月日・価格など)だけでなく、表紙画像と簡単な内容解説が掲載されています。この目録の便利なところは、同じテーマ、同じトピックの新刊書が一覧できることで、「森羅万象における今日的な課題を扱っている新刊書」を見つけ出すやすいことです。これを毎号関係者全員がブラウズすることによって、ライブラリーが受け入れるべき新刊書に目配りしています。

◇ 注目したい新刊書
さてカフェブレイク・ライブラリートークの本来のトピックである新刊書の中で〈注目したい新刊書〉についてですが、今回は「‘20世紀’もの」を選んでみました。

その書名に‘20世紀’と付けられている本は、新刊書を含む流通本(新刊書店で購入できる本)は非常にたくさんありますが、その多くは、たとえば「20世紀の音楽…」、「20世紀のファッション…」、「20世紀の政治、経済…」などというように特定テーマの最近の動向や状況を扱った本です。しかし今日私が取り上げたものは、〈20世紀〉そのものがテーマとなっており、最近2、3の本が立て続けに出版されたので、とくに目に付いたわけです。

私たちが高校時代の歴史の時間では触れられずに終わってしまった現代史がその内容なのですが、いずれも〈今世紀〉、〈世界の中の日本のこれから〉、〈今後私たちはどのような世界を築き上げ、どのように生きるべきか〉に想いを馳せる動機で書かれた本です。

少し前に、同種のものでかなりの数の「‘昭和’もの」が出版され、いまも出されていますが、それらは、「先の戦争経験の記憶を後世に」というものか、「高度成長で失われた物を再興すべき」というものか、写真集を含め「失われた日本へのノスタルジー」ものであり、どちらかというと〈日本〉という枠内で論じられたり、語られたり、描かれています。

それに対してここで取り上げる「‘20世紀’もの」は歴史家あるいは歴史学者ではない識者がグローバルな視点で、過去の百年をとらえています。

私が注目した本は以下の4点です。

  • 海野弘 『二十世紀』 文藝春秋社 2007年5月30日出版
  • 橋本治 『二十世紀』 毎日新聞社 2001年1月30日出版
  • 寺島実郎 『二十世紀から何を学ぶか〈上・下〉』(新潮選書) 新潮社 2007年05月25日出版
    • 上巻:1900年への旅:欧州と出会った若き日本
    • 下巻:アメリカの世紀、アジアの自尊
  • アルベール・ロビダ 『20世紀』 朝比奈 弘治訳
    朝日出版社 2007年5月30日 出版

海野弘は、これまで19世紀末から現代までの美術、音楽、映画、ファッションなど、人びとが過密に集中して消費生活を営む都市空間が醸し出すものやことの形に関する本をたくさん出版している評論家として著名です。

この著者の『20世紀』では、そういったトピックスを含め、政治・経済・産業・科学技術などにわたり、過去の100年間という時間帯の中での世界中の人びとの思想や行動、その結果創り出されたものごとのすべてを詳査し、そのなかからその1世紀を特徴づけることがらを選び、〈10年〉ごとに〈平面的に〉に ‘20世紀’という激動の時代をエディット(編纂)しています。〈平面的〉というのは、政治史/経済史/産業史/科学技術史/文学史/美術史/音楽史を個別的にというのではなく、それらを横断して1900年代/1910年代/1920年代/…と各10年を区切り、それぞれを特徴づけるキャプションを関してまとめ、次の10年区切りに繋げています。その手法は編集の妙というのか、編集力というのか読者に次々と読ませる説得力があるように思われます。

なお著者、海野弘は第2回ライフスタイルサロン(11月15日開催予定)のスピーカーとして登場が予定されています。

橋本治は、かつて「とめてくれるなおっかさん。背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」というキャッチコピーで一世を風靡したイラストレーターで、その後小説『桃尻娘』を振り出しに文筆家となり、近年ではその該博な知識と独特な文体を駆使して古典文学の現代語訳や二次的創作(枕草子、徒然草、古事記、源氏物語、平家物語)にも取り組んでいます。

この『20世紀』は、ものごころが付いた頃著者が「自分がいま生きている社会はどこか変だ。どうしてこうなったのだろう」ということをよく考えていたのがどうやら動機となった本人が語っているように、自分の想いから書かれた「二十世紀百年分の毎年コラム」いうべきものです。内容は海野『20世紀』と同じような構成ですが、こちらは1年ごとにまとめられ、その年の社会情勢を2頁でまとめ、毎年の特徴をキャッチフレーズして章題としています。

著者は1948年生まれだから、半世紀は実体験を踏まえて振り返っているわけですが、〈へんてこな〉現状はそれ以前を引きずっているわけですから、生まれる前についてはさまざまな資料を漁って随筆風にその流を書いています。

以上の2点について1938年生まれの私は、小学校に入った1945年、大学入学の1957年、就職した1961年、結婚した1964年、最初の子どもが生まれ、家を建てた1967年などなどと、その節目節目の年やディケードの記述を拾い読みながら、私は、自分が生きてきた70年間の私自身の想いをより明瞭に意識できたように思いました。

寺島はわが国の経済政策論の専門家で、これまでも安全保障や外交などについて多くの論説を評論誌に発表し、単行書にまとめています。この『20世紀』は、明治維新後の、日本近代化の担い手たちが世界各首都の政治・経済・社会・文化に何を感じ、どう思ったかを原点にして日本の‘20世紀’を振り返り、そこから〈21世紀〉を創り出す課題を考察しようとしています。海野『20世紀』と橋本『20世紀』とは異なり、本書は、世界(とりわけ欧州・アジア・アメリカの三点計測)とのかかわりでわが国‘20世紀’の進展を取り上げ、その時々の状況の下で、日本を背負った人たちが不条理あるいは困難をどう考え、どう行動したかといった人物論的考察を中心に据えています。

その標題が「それから何を学ぶか」とされているようにこの『20世紀』論は、啓蒙的(あるいは教訓的)歴史観に裏付けられた論説です。私たちが歴史を読むときいろいろな読み方ができます。たとえばそれをあたかも小説を読むように楽しむことができますし、何かしら教訓を導きだそうとしてそれを読むこともできまし、また将来の自分自身を創り出す根底を探る意識のもとでそれを読むという読み方もあります。海野『20世紀』と橋本『20世紀』はどちらかというと物語的歴史観による現代史のように思われるのですが、いずれにせよ、過去のことはいま生きている現在私、ないし私たちを作っているとおもわれる過去であり、それを否定することはできないようです。とするならば私は、あるいは私たちはそれをどのように生かすのか、今回のカフェブレイク・ブックトークでこれらの本に注目しながらそんな大それたことが頭をよぎりました。

さて最後にロビタの『20世紀』です。
ロビダは19世紀末から20世紀初めに活躍したフランスの風刺画家で、当時の有名なSF作家で『海底2万マイル』を書いたジュール・ベルヌに対抗して「20世紀3部作」を出版しています。本書はその中の一つで1883年に出版されました。
原題も訳題も『二十世紀』とありますが、19世紀末に1952年を想定して書かれた未来小説です。

海野や橋本の『20世紀』を開いてみると、1950年代は冷戦構造の固定した時代として位置づけられ、西側諸国では、経済が急速に復興し、第二次世界大戦前と同様の消費生活が行われるようになったとされています。また都市近郊には郊外住宅が発達した。政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求運動が起こっています。さらに東西ブロックの競争が激しくなり、軍拡競争、宇宙開発競争などが盛んになり、朝鮮戦争はじめ世界中で地域的動乱が勃発していることなどがわかります。日本では講和条約が締結され、高度経済成長が始まり、社会文化的にも新たな発展が始まろうとしていた頃です。

ロビタは、300点を超える挿絵(それ自体は19世紀的である)を施しながら、未来予測の物語を書いたのですが、以上で述べたような現実の〈1950年代〉の随所に符合を読みとることができます。ただしその未来予測は19世紀末のフランスの世相を起点としており、それに詳しくないと最初はとてもピンときません。大部な本なので読むのにも一苦労なのですが、我慢して読み進めると、そのおもしろさがじわーっと湧いてきます。

◇ 最後に
以上は第1回目のブックトークのサマリーなのですが、これには実はお話ししようと用意していながら、時間の関係ではしょってしまったことも書いています。ちなみに今回は60分のトークでした。

宇月原晴明 『安徳天皇漂海記』 中央公論社 2006年

藤沢周平の時代小説にはない独特の印象をもつ。これは完全にファンタジーだ。とはいえトルーキンの『指輪物語』などとは全く異なる幻想・奇想が語られている。それはまた風太郎の奇譚とも違う。

時代は、平安時代末期の壇ノ浦の戦いを起点とし蒙古襲来までのおよそ百年である。その間の出来事を吾妻鏡や明月記(定家の日記)や平家物語、そしてマルコポーロの東方見聞録から自在に取り込まれている。

物語の主役は、壇ノ浦で「浪の下にも都のさぶろうぞ(ありますよ)」との二位尼殿の囁きと共に入水した幼少の天子、安徳天皇である。創作の妙は、幼少の天子の霊魂が海底にあって琥珀様の玉石に懐かれ、謎の一族に守られて現世に漂流させ、浪の下の理想郷に至らしめたことである。

ストリーは二つに展開する。第1部では、その霊魂が鎌倉幕府三代将軍源実朝に取り憑き、幼少の天子の新しい都、すなわち極楽浄土へ導く守護者となることを求める。朝廷関係は幕政に腐心する実朝にもう一つ心を砕かなければならない難題が科せられることになる。物語のかたり部(実朝の小姓)が「大海のいそもとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも」ほか金槐和歌集の数々の和歌の裏側にそうした心労を読みとりながら物語を進めていく。それぞれの歌に込められた将軍の想いは、遙か昔私が高等学校の古文で知った詠心とはまったく異なっている。そこに作者の虚構の力量があるのだが、それが読者をぐいぐいと引っ張っていく。

実朝は権謀術策の渦巻きの中で倒れるが、幼少の天子の霊魂は実朝の首を携えは日本を離れ、南海を漂流する。やがて南宋の最後の少年皇帝趙へい(〈日〉の下に〈丙〉を配する漢字で、pcの漢字辞書には収められていない)に取り憑く。同じような境遇にあった幼少の天子と皇帝は幾ばくかの時を海浜に遊ぶが、フビライの命を受けた元軍がその地に迫り、ついに壇ノ浦の再現とも覚える海戦の最中少年皇帝もまた入水して果てる。その間の語り部はフビライの伽衆の一人マルコ・ポーロである。作家は東方見聞録のエピソードを自在に取り入れ、マルコをして、南宋滅亡の経過や安徳天皇の霊魂が琥珀に懐かれて漂海するいわれや元寇における蒙古・朝鮮連合艦隊滅亡の因を元帝に報告させている。

ところで作家は元寇の敗因に関しても一工夫している。第1部の語り部であった実朝の侍従が将軍の首を抱き博多近くに隠遁して後安徳天皇霊と再会し、御首と引き替えに幼少の天子の護符であった塩盈珠(しおみちのたま)と塩乾珠(しおひのたま)を譲り受けることになった。これらの珠玉は、あの「山幸彦と海幸彦」神話にて山幸彦が失った釣り針を探して竜宮に赴き、そこで海神の娘と結婚し、海神より贈られた物であった。塩盈珠は満潮を自在にする力を、塩乾珠は干潮を自在にする力を持つという。つまり隠遁した将軍侍従は安徳天皇の先祖神にまつわるこの伝説の珠玉を操って蒙古海軍を壊滅させたことを匂わせる。

南宋滅亡後安徳天皇霊はいよいよ目的の地に航海を進めることになるが、マルコもそれに同行する。一行が最後に辿り着いたその地は先祖が築いた理想郷は、幼き天子の先祖につながる高丘親王が希求した理想郷であった。親王は、奈良時代の平城天皇の第三皇子で、政変のため皇太子を廃されたため出家し、空海のもとで密教を修め、64才という高齢で唐へ渡った。そして西暦875年、67才のときに二人の僧とともに広州から船で天竺へ向かい、そのまま消息を絶った史実に伝えられている。親王にとって天竺は理想郷であった。幼き天子が最後に辿り着いたのがそこである。だだしそこは天竺ではなく、鑞蜜の郷であった。またその郷は、高丘親王や安徳天皇のはるか、はるかな先祖神で、不具ゆえに葦船に入れられて流されたヒルコ(蛭子)が到達したところでもあった。蛭子は『古事記』での国産みのときイザナギとイザナミとの間に最初に生まれた子神である。なんたる永久の時の流れか。評価は☆☆。

作家宇月原清明はこれまでに「信長、あるいは戴冠せるアンドロギュヌス」(1999年新潮社刊)、「聚楽、太閤の練金窟(グロッタ)」(2002年新潮社刊)、「黎明に叛くもの」(2003年中央公論新社刊)などを出している。なおこの「安徳天皇漂海記」は2006年の山本周五郎賞を受賞しているが、本年その続編ともいえる「廃帝奇譚」(中央公論新社)を出している。

アダム・ファウアー 『数学的にありえない<上・下>』 矢口誠 訳 文藝春秋社 2006年

『数学的にありえない』(原書:IMPROBABLE)はちょっと変わった小説だ。一言でいえば、総合失調症の天才統計学者が病気の治療の結果、未来予測能力を身につけ、身に迫る危機をぎりぎりのところで解決していくという物語である。

総合失調症はかつて精神分裂症といわれ、妄想や幻覚・幻聴などの多彩な症状を示す精神疾患のひとつである。一説によると、全人口の1%ほどがこの病気にかかっている、といわれている。1%の数量が多いか少ないかの判断はものごとによって、また人によって感じ方が違うだろうが、何かが起こるあるいは何かに当たる可能性、つまり確率がこの小説のモチーフとなっている。確率は統計学のひとつの大きな要点だが、この小説では統計学に止まらず、量子物理学や脳生理学などの知見に基づいて書かれており、究極的には、人が未来において遭遇することについての確率論的解釈が示されている。数学や物理学の知見に基づいて描かれているという点ではこれをSFのジャンルに入るものといえるが、そういった可視性の低い科学が小説のネタになっているのだから、矢張り変わった小説だ。

大学で確率論を講ずる一人の天才数学者がポーカーで「ありえない」と判断した確率の誤差に陥り、大負けして破産に追い込まれてしまう。他方彼が日頃悩んでいる癲癇(てんかん)はじめ、統合失調症などにおける脳のメカニズムのなかに未来予知能力の秘密があるという仮説に基づいて人体実験でそれを究明している科学者がいる。そしてその科学者の周辺に政府の秘密研究所があり、その所長その結果で金儲けを目論んでいる。さらに一人の元ロシアのスパイでいまはCIAの女性エージェントもその秘密を他国に売り、金儲けを企んでいる。物語の最初はそれらのストーリーが命脈もなく、しかもハイテンポで展開されるため読んでいて混乱してしまうが、やがて病気の症状を抑制するある種の薬によって未来予知能力を促進することが主人公の行動によって証明されようとするに及んで、いろいろな思惑が一つの筋にまとまってくる。あとは一気呵成にストーリーが大団円に向かって急速に展開される。私の評価は☆☆(非常に高い)。

確率論では、1%の現実性を高めるためにさまざまな理論構築を試みてきたという。パスカルの〈期待値〉という概念を紹介するのに文中のロトくじのキャリーオーバー賞金の当選確率に関する事例は、私のような確率を当たる可能性などと単純にとらえる者には新しい発見である。ものごとへの期待感こそ未来予測であり、個々の価値観からの期待が常に込められるという。楽観的といわれようともだれもが良い夢をみたい、たとえダメもとでも。

この物語での未来予知とは、無数に広がる可能性の中から確率論的に実現性の高い因子を選び出し、それら因子を以て実現可能性を高めるさまざまな工夫しながら総合的判断の下で果敢に行動できる能力と規定してストーリーを完結している。何やら事業における最終意思決定の教訓にも聞こえるが…。

瀬戸内寂聴 『秘花』 新潮社 2007年

この小説のモチーフは、人間いかに死ぬかである。その命題はいかに生きるかの裏返しなのだが、人生の最晩年に表舞台から退去を余儀なくされた芸能者のいかに生きるかを追求したものであるから、やはりいかに死ぬかという捉え方のほうがいい。

これは、『風姿花伝』『花鏡』などの芸論や数々の謡曲を創作し、後世能楽の大成者とされる世阿弥を主人公とした物語である。次代は室町幕府が安定した三代将軍義満の治世から半世紀の間の話だが、四代将軍義持から「上をないがしろに、不届きの数々あり」といういわれなき罪により佐渡島に流刑された事件を発端に、奈良の申楽(猿楽、散楽などともいわれる)一派観世流の盛衰の渦中にあって七十二歳の世阿弥がその後のおよそ十年をいかに生きたかを語って聞かせている。その生き様は、逆境に藻掻き苦しむというより、老いと向き合い淡々として能論をさらに追求し、新曲の創作にいそしむそれであり、清々しい。

その反面、芸能者が将軍や公家などの権門に取り入り、その庇護を得て世評を博すまでの水面下での術策はおどろおどろしい。とくに義満と世阿弥、二条良基と世阿弥の肉体的関係は、それが当時の少年愛慣行の一つの表現とはいえ、いささかへきへきする。しかし芸能者にとってそれも芸の肥やしか。世阿弥は『風姿花伝』で少年の美への愛欲の儚さを解きながらも、それに抗いがたい魅力をも論じているそうだが、二人だけの濃密な愛の夜は秘してこそ花ということである。それがこの小説の標題の意味。

物語は初めの部分が世阿弥の想いを中心にして展開され、後半は佐渡で彼に尽くした女の回想録で、出家した三男に語り聴かせるという後世になっている。

その前半の最後に、後鳥羽上皇はじめ数々の流配の高貴を想いながら、長男の合作による「俊寛」の逸話が語られている。それが流配所で生きる、いや死ぬる男の悟りなのであろうか。
☆の評価。

これを読みながら考えた。私自身の体験を重ねてみるならば、96年4月にSFCに移籍したことに匹敵するのかなあと。そんな馬鹿なと、いわれるかもしれない。しかし当時はそんな気持ちであったし、定年までその流配置でどのように生きようかと真剣に考えたことは事実である。幸いなるかな、「俊寛」とは異なる生きる道をえたという確信がもてたが…。

ところで、物語では世阿弥の能曲作意について幾つかの謡曲の一節が取り上げられているが、作曲のモチーフが万葉集や古今集の詠心や伊勢物語や平家物語などから多くとられていることを知った。つまり何時の世にも変わらぬ情念こそがそれである。それは、当たり前のことか。

島田雅彦 『退廃姉妹』 文藝春秋社 2005年

物語は、戦争(大東亜戦争)ゆえに、戦後思いもよらぬ生活を始めることになった姉妹の話である。

映画監督を父とする二人の女学生がいた。母はすでに亡くなっている。話は戦争末期、米空軍の東京空爆の頃から始まる。姉は特攻兵に一目惚れ、特攻兵にそれを告白するほど一途な娘、妹は空爆や戦時統制にもめげない骨太で、奔放な娘。やがて終戦、私はその時7才。小学校に入った年である。会津では一般には多少の不自由を感じてはいたのかもしれないが、私自身は生まれてからそういう状況が続いていたので、何不自由ない暮らしであったように記憶している。しかし東京ではそうではなかった。

さまざまな統制は雲散霧消するが、生活のすべて、顎・足・寝に不自由な情勢となる。しかし生活物資が底をついたわけではなく、あるとこにはあった。たとえば食料はいまでいう地方にあったわけだし、戦争遂行のために日本軍が掻き集めていた物資もあった。「買い出し」が一般生活者の食を求めての日常的行動となり、また人の集まる焼け跡に「闇市」が食を含め、生活物資や生計チャンスを得る空間となった。

米軍が進駐するようになったころの公の施策一つに米兵士の慰安所の設置というものがあった。一般の日本人婦女子の貞操を性の発露もだしがたき若き米兵から守るため、吉原とか品川とか新宿とかにあった廓亭とは別にそういう施設が設けられた。それは多数の婦女子のために少数の婦女子を犠牲にすることによって成り立つわけである。陰惨というか陰湿な施策である。

しかしそういった少数の女性の中にも、「仕方がない」と踏ん切り、図太くいきた人たちもいたようだ。この一家の妹がその一人である。彼女は街娼の一人に手ほどきをうけ、その街娼と共に焼け残った自宅で私設慰安所を開く。さらに映画作りがままらななかった父親がたまたまその時期の身すぎ世過ぎにと始めた公設慰安婦募集で選んだもう一人がそこに加わった。そこでの生活が5年ほど続くことになるが、この小説はその間の彼女らの逞しい生活をあっけらかんと描いている。そのたくましさを著者は皮肉にも「退廃」と読んでいるが、それは単に「身を持ち崩した」という意味ではない。そのたくましく生きた彼女らに現実のモデルがいたかどうかわからないし、詮索したいとも思わないが、作家はエピローグで彼女たちのその後を、たとえば一人はストリッパーを経て小料理屋の女将となった、一人は父親が映画作りに復帰したことから女優になった、一人は父親と結婚したなどと締めている。
評価は私の子どもの頃の思い出を懐かしんで、☆☆。

その思い出とはこうである。私の実家の向かいに小振りな商店があった。雑貨屋だったが、たばこも商っていたので、近所では「タバコ屋」で通っていた。

そのタバコ屋は子だくさんで、終戦当時8才の男の子を真ん中に姉と兄、妹と弟がいた。姉がもう一人いたはずだが戦時中に肺病でなくなっている。近所のことであり、ほぼ同年の男の子もいたので一緒に遊ぶことが多く、しょっちゅう行き来していた。ところでそのお姉さん、当時番茶も出花の年頃で、なかなかの美人であった。

会津若松には戦前まで仙台第2師団の29連隊が駐屯していたのだが、戦後一時その駐屯所連隊規模の米軍が入ってきた。したがってこの小説にあったような慰安所設置問題がここでも起こったようである。この町には廓町が何カ所かあり、隣地の東山温泉と市内の三業地に結構な数の芸者連もいたので、若き米兵の性のはけ口はおそらく彼女らプロが受け止めたと推測している。したがって小説に出てきた公的慰安所は作られなかったように思われる。その代わりに、米軍施設内で開かれるパーティなどに素人の若い女性達が駆り出されたのではないだろうか。タバコ屋のお姉さんは、どうやら、いまでゆうコンパニオンの一人であったらしい。そうしたパーティで知り合った兵士の何人かが実際にタバコ屋に招かれたりした。そういった現場に私たち子どもたちが同席し、兵士自らが切り分けてくれたハーシーのチョコレートバーを貰ったりしたことを覚えている。

ところで私の実家のすぐ近くに廓町があった。それは売春防止法成立の1958年まであり、私は毎朝その廓の中道を通って学校に出かけ、そろそろ客引きが始まろうとすることそこを通って家に帰ってきていた。このことがお姉さんの不運につながった。ある日MPのジープが数台、タバコ屋の前に止まり、彼女を拘束しようとした。驚いたタバコ屋の父さんが片言の英語でやりとりしたところMP司令部は、廓町に隣接している家の娘が夜な夜な米軍のパーティにきているので、お姉さんをその道のプロと勘違いし、病気の検査を強いるための臨検であったことがわかった。この事件についての周りのおとな達の噂話を聴いていた7才の子どもの理解である。誤解は誤解として検査を受けるように説得されたらしい。お姉さんはジープに乗せられて行ってしまった。

その後お姉さんの姿を見ていない。後々に東京で結婚し、幸せに暮らしているという噂を聞いたこ