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話は、今から16年前に遡ります。1987年、ちょうど新緑の季節だったと思いますが、私の上司であるS常務から役員会議室の一室に呼び出されました。用件は、先代の社長の森さんが、大学か何かをつくりたいようなのでそちらを手伝えという人事異動の内示でありました。ちょうどまさにその頃の私は、六本木6丁目再開発事業(六本木ヒルズ)の地元交渉部隊の一員として働いておりました。1986年5月、アークヒルズがグランドオープンを迎え、その年の11月から六本木6丁目地区が東京都の「再開発適地」になったので、一緒に再開発活動をしましょうと呼びかけを開始したところでした。7名程のメンバーが、選抜されその1名として参加していたのです。11月の最初の頃でした。柿のなる家を訪問したところ「森ビルですが・・・」と声を掛けるとビシッと扉を閉められ、道のりの遠さを感じながらも、その後、3度、4度と足を運び、話を聞いてもえるまでの関係になり、ようやく面
白さがわかってきたころのことでした。
そのような重要な時期でもありましたが、トップからの指示ということで即座に新事業に携わる準備に入りました。まずその場所ですが、アークヒルズ地下4階の20坪位
の倉庫でした。そこに事務所と教室をつくることになったわけです。当時、森ビルグループの本社は、虎ノ門37森ビルでしたからホテルオークラの丘をこえアークヒルズまで歩いて引っ越しを終えました。身一つでの引越しで何もかも新しい挑戦でした。着任先には、上司も仲間もおらず、何もない広々とした20坪の部屋があるのみで、新しい机、椅子、電話等事務所の態をなすことから始めなかればなりませんでした。もちろん、地下4階ですから窓はありませんし、まわりは駐車場で殺風景な場所でしたが、私には妙に新天地としての期待で輝いて見えました。また部門構成員も、ちょうど前の部署に新人として配属された女性を私のパートナーとして転部してもらうことに成功したのですが、これには前の部署のメンバーから随分お叱りを受けたのを覚えております。私29才、彼女23才、たった二人の部署の誕生です。
当時、このプロジェクトを支えてくださるアドバイザーが、いらっしゃいました。東京大学工学部の伊藤滋先生と、同じく東京大学工学部の石井威望先生、文化服装学院の小池千枝先生、名古屋大学工学部の月尾嘉男先生、この4名の方々でした。(各人当時の肩書)当時は、「アークスクール」というプロジェクト名を付けた会議が森泰吉郎前社長を交えて頻繁に行われており、その会議への参加と議事録づくりからが仕事でした。各先生がいろいろ意見をおっしゃって、最後に森前社長がうなるように何かボソボソと意見を言うのを出席者が耳を傾けるというようなスタイルの会議でした。思えば当時森さんは82才位
でしたし、小池先生は70歳、伊藤先生と石井先生は50歳代半ばで、月尾先生が40歳代後半といったところへ、20代の若造が事務局という不思議な構造でした。またこの会議には、森記念財団のY理事もご参加され、議事録づくりやら何やらご指導いただいていました。そもそも森記念財団こそが、森ビルの文化事業の原点であったことを思えば自然な流れでありましたが、当時は訳も分からない日々の連続でもありました。会議に出席しているうちに、本来このメンバーが目指していたことはまったく新しい大学づくりが目標で、その実現に向けての検討が当初目的でしたが、実現性が法的にも資金的にも大変難しいので、その前哨戦をやることが目的なのだとわかってきました。上司といっても森前社長ですから直接趣旨説明をしてもらえるわけでもなく、その発言やら過去の議事録から推論していくように理解するのが精一杯でした。最近流行の上司のアカウンタビリティなどとは、無縁の世界でした。ただ私にとっては、考古学の古文書を読み解くような面
白さがあり、大人の会話をとても楽しんでいたのを覚えています。
さて、そのような会議から突然9月に実験的な何かをやろうということになりました。決定したのが7月も終わらんとしていましたから、とても準備に苦労しました。時間もない予算も分からない。ただトップの意向であるということで、いろいろな部署の人に助けてもらって何とか準備ができたように思います。まずスクールの名前ですが、「実験的アーク塾」とすることになりました。
もともと「アークスクール」という名前がありましたのでそれでいこうという意見もありましたが、石井先生から、緒方洪庵の適塾の志を汲もうということで、「塾」という名前になりました。臨床学を重んじた緒方洪庵は、これからの学校のモデルであるという趣旨です。形式化した大学の講義、工学とか文学とか縦割りに教える教育。実学を軽視し、専門学校に任せる風潮。これらの傾向に対抗する教育スタイルを確立するのだという思いが、この「塾」に込められたわけです。
9月から7回シリーズで、先ほどのアドバイザーの先生方が順番に講義をする。それを40名くらいの選抜された人が話を聞くというスタイルでした。一人あたり7回で7,000円程を受講料でとったように記憶しています。先生方は、ほぼボランティアでいろいろな角度からお話をされたりしましたが、今でも記憶に残るのは、石井先生がパソリンクという簡易テレビ伝送装置をアークヒルズの屋上と小池先生のいらっしゃる新宿の文化服装学院の窓越しにおいて実況生中継による講義を行ったことです。ちょうど、文化祭の様子を生中継して講義が進められました。当時はまだマルチメディアという言葉もなく、ニューメディアの代表として衛星放送が取り上げられる時代でしたから、この実験的な講義はとても印象深いものになりました。もちろん準備にとても苦労して東京大学の当時助教授であった廣瀬通
孝先生や院生の方にはとてもご苦労をお掛けしたのも覚えております。
このようにヨチヨチ歩きの「実験的アーク塾」は、森ビルの最初の文化教育事業としてスタートしたのです。
次回は、「アーク都市塾」誕生までのお話をしたいと思います。
それでは今回は、これにて失礼します。
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