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■高田賢三の世界
融合から生まれる個性とデザイン 高田 賢三 ファッションデザイナー 小池 千枝 文化服装学院名誉学院長 |
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無惨な戦いの後の昭和21年に、文化服装学院は再開された。新宿の焼け野原を前に平和を願いながらクリエイターを育てていこうと、昭和27年、当時の大学にはない教師陣を集めてデザイン科を創設したのが小池千枝氏らである。その第1号で飛び込んできたのが高田賢三氏であった。彼こそフランスでクリエイターとして評価された最初の日本人である。恩師である小池氏との対談形式で、高田賢三氏がその世界を語る。
■デザインの世界へ 高田 ----- 戦後の何もない子供時代、姉の読んでいた「それいゆ」にある中原淳一の世界 や映画、漫画に夢を描き、将来は絵に関する仕事か、外国を訪れるような仕事に就きたいと思っていました。 郷里の姫路から神戸の大学に通い始めたのですが、文化服装学院の師範科が男子学生の募集を始めたことを知って、東京への憧れもあり、初めての夏休みにアルバイトでお金を貯めて東京の友だちの家へ転がり込みました。その後、住み込みで働けるところを見つけて、半年間、挿し絵の通信教育やデッサンを学びました。家出同然だったのですが、独力で文化服装学院の試験に合格したことを母に話すと、母は大学を離れて文化服装学院で学ぶことを承知してくれました。 小池 ----- 文化服装学院では最初の年は洋裁の基礎を覚えてもらうのですが、デザイン科は才能のある人に飛び級を認めていました。当時、クリエイターをどうやって育てようかとフランスに渡り、デザイン教育の現場を見てきたのですが、フランスも日本も デザインを志す男性が燃えていましたね。 日本では製図をおこす平面裁断を教えていましたが、フランスでは服をつくるのにものさしを使わない。先生は教えないで、とにかくボディを使った立体裁断をやらせている。この両方を身に付けることができれば素晴らしいと考えたのです。 どちらにも必要になるのは美意識。理想形を踏まえて実際の肉体を包める原型が大切なんです。フランスからボディをひとつ買ってきて、賢三さんたちに立体裁断をやってもらいました。 高田 ----- 先生に「寸法を忘れてこれでつくってみなさい」と言われたことを覚えていま す。 立体裁断の講義は最初は戸惑ったのですが、彫刻のようで面白く、製図とは全く別のものでした。『ヴォーグ』の写真を見て製図をおこしなさいと言われて、手で線を描いたら非常に誉めていただいたことを覚えています。そのとき、型紙というのは手で描いてもできるのだ、と初めて洋服づくりに対する考え方が開けました。 小池 ----- 賢三さんはものさしで測っては描けない、ほんとうに美しいラインを描いたのです。それを誉めたことで自信を持ってくださったようですね。平面と立体の融合。賢三さんは平面で立体裁断的な感覚の製図ができる。このことで生産の能率が上がるのですが、それは平面の分からないフランス人にはできないことなのです。 高田 ----- 師範科で原型や製図を習ったのですが、当時はやる意味が分からず、嫌で仕方なくて毎日徹夜で宿題に追われていました。どうしてここに入ったのだろうと思ったほどです。ところが、デザイン科に進んでから、コシノジュンコ、松田光弘など、才能のある人たちと出会えたことで面白くなってきました。 それに小池先生からはパリの香りがぷんぷんしていて、講義を聴くのが楽しみでした。『ELLE』の最新号を見せてくれたりして、まさに流行通信講座でした。 小池 ----- デザイン科は才能のある人たちが交流することで、新しい力が生まれてきまし た。賢三さんは「クリエイターだ」といわれた最初の日本人。そこにいくまでのお話をうかがいたいですね。 ■才能や異文化との交流 高田 ----- 自分は先生や友人に恵まれて幸運でした。よく遊び、一緒にいろいろなところに出かけた仲間は友だちであると同時にライバルでした。 装苑賞をいただいたことで仕事が入ってきました。アパレルに就職し、企画室で毎日絵を描いていました。それが型紙になって翌日には服ができて、それを販売の人が売りに行っていました。こうした毎日を1年続けましたが、これは面白かった。 小池 ----- コンテストは評価するだけでなく、注文につながり、仕事として独立していけることが大事。その点、装苑賞は心あるコンテストですね。 高田 ----- その後、64年に大きなチャンスがあって、1年間お金を貯めてパリへ行くこ とにしました。そのことを小池先生に相談したら、船旅を勧められました。はじめて の海外でしたが、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ジブチ、アフリカのアレクサンドリア、バルセロナ、マルセイユを巡りました。 自分の店を始めることになったとき、自分のアイデンティティはエスニックであることを意識したのですが、この船旅がなければ出会えなかった視点だったと思います。 ただ、当時は日本人がパリで仕事ができるような状況ではありませんでした。パリ ではオートクチュールの盛んな頃で、ディオール、シャネル、カルダン、ニナリッチのショーを見て、オートクチュールに完璧に打ちのめされました。 しかし、いい時期にパリに行ったと思います。かっこいい女性はみなシャネルやそのコピーを着ていたのですが、春先からは、クレージュの世界に変わっていきました。シャネルとは別世界の、ミニで立体的な感覚のクレージュの服をたまに見かける と、すごいなと思っていました。 その頃、若手のクリエイターが店を出し始めていました。ボン・マルシェにあるドロ・テ・ビスは、『ELLE』のイメージそのものの店でしたね。今までのオートクチュールとは全く違うものが現れ、いろいろなことが変わり始めていました。 僕はお金を半年分しか持っていかなかったのですが、パリの良さが分かってきて、 もう少しいたいと思いました。そこで、デザイン画を誰かに見せようと、オートクチ ュールデザイナーのルイ・フェローの店にスケッチブックを持って飛び込んだところ、思いがけず本人に会えて、絵を買ってくれることになったのです。 小池 ----- そう。ルイ・フェローは色の美しいデザイナーだけど、賢三さんのイラストを最初に買ってくれたのが彼だったのですね。 ところで、賢三さんの作品を最初に掲載したのは『ELLE』でした。私はよく 『ELLE』という週刊誌を教科書にしたのですが、ここには服だけでなく、映画やスポ ーツなど生活が載っていた。生活文化がそこにあったんです。『ELLE』から生活文化を感じてもらいたかったのですよ。 ■パリでのスタート 高田 ----- 「毎週でも絵を見てやる」と言われて、それからルイ・フェローのところに通い始めました。希望が出てきたので、『ELLE』の編集部へ行きました。そうしたら 『ELLE』でつくっている服を読者に売るページの担当者が私の絵を10枚くらい買っ てくれたのです。少しずつ絵が売れ始め、ピサンチという小さなワンピース専門 のプレタポルテの会社で仕事をしないかと言われました。こうしてなんとか生活ができるようになり、また当時、労働ビザも取ってもらうことができ、パリに住めるようになったのです。 69年、東京で友だちが相次いで店を開いたのに刺激されて、70年4月にパリで店を開きました。お金がなかったので、店のデコレーションはルソーの「ジャングルの夢」風の絵を3カ月かかって描きました。 小池 ----- このころの賢三さんの代表的なコレクションを見てみたいわね。 高田 ----- 70年に製作して71年に店に出した着物スリーブ(写真 )。このセーター をきっかけに、服のつくり方が変わったと言えます。 小池 ----- これには今の時代にそのまま通じる新しさがありますね。何気ない、さりげない、だれでも着れる服。70年当時はゆとりのない服が主流でしたから、これを見てフランス人は驚いたのです。 ところでテーマ性を初めて打ち出してきたのが、ルーマニアルックでしたね。男も女も対等だということを服で見せてくれました。71年のマキシスタイルでは、フランス的ムードが出てきましたね(写真 )。こうしてみると、ファッションは本当に繰り返しね。 高田 ----- コレクションをつくるときいつも考えているのは、いかにシーズンらしくカッ ト、デザインを変化させ、代表になるようなデザインをつくるかということです。 シャツをビッグにしてフレアを入れたスタイル(写真 )も、自分では非常に新しく感じました。普段に着られて、クラシックな感覚を新しくしたものは印象に残るし、うまくいっている気がします。 ■自分らしさを築く 小池 ----- 賢三さんは日本人。それを出すことによって異質な文化にフランス人は驚いたのです。しかも賢三さんの服は見せる服ではなく、みんなに着られる服として愛された。 高田 ----- 時代も良かったと思います。好きなことにとても夢中になれたのです。今は大変だと思いますが……。 私は、パリに出かけて日本の良さが分かりました。パリに5年勤めながら住んで、 流行を自分なりに取り入れてつくっていきました。日本の着物の色や柄を意識しなが ら服をつくり始めたのが自分には良かったと思います。立体と平面を使えるのも強みでした。アシスタントに平面と立体を教えながら、大量生産の会社と契約して、ある程度大量につく 小池 ----- 賢三さんは国の壁をはらってくれました。彼は肌の色で区別されなかった。こ の個性にフランス政府は芸術文化の勲章を授与したのです。1960年の装苑賞をはじめ、国内で数々の賞を受賞、1984年には、フランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ位)、1998年に芸術文化勲章(コマンドゥール位)、1999年には、ニューヨーク国連平和賞、日本でも紫綬褒章が贈られました。 賢三さんを追いかけて若い人が続くことを私たちは望んでいます。戦後の焼け野原で、私たちは何百万人もの人々が亡くなったことを思い、優しい気持ちで生きていけるよう願いました。また、私たちはいろいろなことを賢三さんから教わりました。賢三さんたちの仲間は教室以外でも交流を続け、互いの才能を尊敬し合っている。 賢三さんのさりげないセンスは、相手を尊敬する優しい気持ちに原点がある。その気持ちが着る人のことにも及んでいる。完全なデザインまでつくり込まずに、着る人の個性が加えられる余地を残している。これが賢三さんの感性なんですね。 高田 ----- これからも服に関する仕事をしたいと思いますが、今は少し距離を置きたい。 今、興味があるのはライフスタイルに関することです、住空間など。今年いっぱいはいろいろなことを吸収しようと思っています。 第11回必修講義
テーマ/「高田賢三の世界」 |
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