■生命科学の最前線
遺伝子技術を巡る可能性と課題

輕部 征夫 東京大学国際・産学共同研究センター長


 スイス・ローザンヌの経営開発研究所によれば、科学技術分野における'99年の競争力評価でダントツは米国。以下、日本、ドイツ、フランス、イギリスが僅差でひしめきあっている。中でもバイオテクノロジー分野は国の権利、政治、産業競争などさまざまな思惑が交錯し、常に国際的な論議を巻き起こす熾烈な競争が繰り広げられている。急速な進化を遂げるバイオテクノロジーの世界を東大国際・産学共同研究センターの輕部氏に紹介していただいた。

●遺伝子は生命を握る
遺伝子は2本の化学物質の上に書かれた暗号により完結している。暗号はA(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)の4つの文字の配列によりどんなアミノ酸をつくるかという指令を出す。人間の体の基本的な部品は10万個くらいの遺伝子で書かれているといわれている。体の遺伝子を全部つなぎあわせると32億の文字になるが、そのうち人間が使っているのはたったの10%くらいだという。
人間は優れた遺伝子を持ち、優れた環境で、優れた食生活をし、ストレスのない生活を送ることができれば120歳くらいまでは生きられる。しかしストレス、発ガン性物質などの攻撃が遺伝子を傷つけ、寿命をどんどん縮めている。

●活用される遺伝子技術
遺伝子組み換え技術はすでに、さまざまな形で活用されている。医薬品の開発はその代表例だ。遺伝子組み換え技術とは遺伝子を切り貼りする技術だ。日本で'98年に遺伝子組み換え技術を含む、バイオテクノロジーでつくられた医薬品のマーケットは3500億円規模にもなっている。また、このほかに洗剤、食品、酒、医療用バイオセンサーなどにも遺伝子組み換え技術は使われている。
まだ実例は少ないが、遺伝子治療も始められている。日本での遺伝子治療にはADA欠損症、末期ガンに対するものなどがある。

●クローン羊ドリーの衝撃
すべての高等生物の生命は卵に精子が受精して分裂を始め(発生)、さらにその細胞が特殊な細胞になっていく(分化)という過程を経なければ誕生しない。
この説を覆したのが'97年にスコットランド・ロスリン研究所のイアン・ウイルムット博士らがつくり出したドリーだ。ドリーはすでに成熟した細胞を飢餓状態に置いてリセットし、発生と分化を起こして子供に成長させた、無性生殖でできたクローン羊である。通常、特殊化した細胞は培養してもそのものにしかならない。何にでもなれる全能性があるのは受精卵だけなのだが、ドリーの場合は成熟したメスの羊の細胞から誕生させたことで世界中を驚かせた。
クローン技術は医薬品や高品質家畜の大量生産を可能にすること、生命科学、医学の発展に寄与できること、絶滅動物を再生できる可能性があることなど生活にもたらすメリットも大きく、動物についてのクローン研究は進められている。
では人間のクローンもできるのだろうか。クローン人間の研究には、人を人為的につくり出してもいいのかという宗教的・道徳的問題、遺伝的な多様性が減少し生物の生き残りに影響を及ぼすのではという恐れ、新しい遺伝的疾患を生み出す恐れ、法律的な混乱や宗教観、結婚観への影響などデメリットが大きく、各国とも研究を禁止する方向で進んでいる。

●移植医療を変える技術
近頃、米ウィスコンシン大学のジェームズ・トムソン博士らが人の受精卵を使って全能性を持つ胚性幹細胞(ES細胞)を人工受精でつくり出し、それを商業的に売ることができるようになった。これまで、動物のES細胞を使って神経細胞などをつくる研究は進められてきたが、この技術を人のES細胞に応用、進化させることにより種々の臓器や神経を人為的につくり出せる可能性が出てきたのだ。
たとえば、ES細胞に遺伝子を導入し、細胞を分化させると神経細胞や筋肉、血管内皮細胞や血液細胞もつくることができ、さらにそれを進めれば、オーダーメイドの臓器ができるかもしれないというわけである。
このようにES細胞の研究は移植医療に大きく貢献することが期待されるが、一方でクローン人間につながる恐れや使用する受精卵の扱いなどの新たな問題も生じている。



第6回必修講義

テーマ/「生命科学の最前線」
講師/軽部 征夫 (東京大学国際・産学共同研究センター長)
日時/1999年11月8日
会場/アカデミーヒルズ(アーク森ビル36階)


academyhills.com