■日本人のアイデンティティ
自己の原点をどこに求めるか

李 恢成 芥川賞作家


 アイデンティティを失い、攻撃に脆い日本。ひとりひとりが方向が見えず、日々何かに追われているが、クリエイティビティがないので趣味の世界に陥ってしまう。人が生きていく上でどうしたらいいのか、バーチャルな物にすり替えないで文化的な戦いをしてほしいと猪狩章氏は語る。今回はゲストに作家の李氏を招き、自らの幼少時の体験と記憶から、日本人のアイデンティティとネットワーク社会の本質について語っていただいた。

●原体験の記憶
1935年樺太の西海岸の町で生まれた。国民学校に変わった年に入学、5年生のとき、日本の敗戦を体験した。樺太真岡町にソ連軍が領土欲しさに進攻してきたのは、戦後の8月20日。自分は家族らとともに防空壕の中で生き延びた。敗戦になるや、翼賛組織である「協和会」役員をやっていた父は、ソ連の秘密警察による逮捕を逃れようと、日本人のふりをして引き揚げ船で日本に来た。幼少期、このような根源的な体験をした。
少年時代を自分の原体験として考えたとき、自分の記憶が今に至るまで混乱している。一貫した思考が困難になり、人としてのアイデンティファイが出来なくなるときがある。日本人として育てられ、いざとなれば少国民として切腹して死のうとまで思ったファナティックなまでの自分が内面にあるのに、戦後は在日朝鮮人となった。少国民だった自分の記憶を、安易に流さずに忘却と闘わなければならない、ということを自分の一生の問題と捉えている。
戦後、作家になった後、再会した国民学校の教師は、少国民だった私が他民族なのにこうまで天皇に至純であろうとしていたのは悲劇といった。そのように自分が教育したことを忘れている。この記憶のすり替えに、どうやってお互いを信じる原点をつくることができるかと考えさせられた。記憶が風化しつつあるのに、肉体的なとどめがあることが嫌な思いとして残る。
歳月で記憶が曖昧になっては困る。戦後の民主主義がまっとうに進まなかったのは、追い込まれたところから始めないで、米国占領軍のこともあるが、多くはあっさり変身してしまったからだろう。自分をとことん詰めていくのは、人間の生き方のしんどさだと思う。日本人が戦後のアイデンティティを考え抜いていれば、ちょっと違った民主主義になっていたのではないか。

●現実と向かい合うマイノリティー
自分は左利きだ。しかし戦争中に右利きに矯正させられた。これは、小さな全体主義だ。そんなことの出来ない個人の尊厳が大切だと信じている。自分の気持ちを押し通そうとだだをこねる子供には、現実にはそれがかなわないとしても「そうしたいのだ」という絶対的な思いがある。この子供一般の無念の思いを文学上の異化という方法で表現したのが、ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」。自ら3歳で成長することをやめた主人公に託して、作家は何を伝えようとしたのか。政治よ、無垢なるものを壊すな、子供に手を出すなということではないだろうか。この子供とは、「自由」かもしれない。日本の作家には、こうした表現方法はなかなか見られないが、人の小さな願いを無視しない認識世界を、新しい文学的構造の中でつくっていく作品がこれから重要になると思う。
今の日本は現実を離れすぎている。情報が先行して現実を隠蔽している。テレビ番組は、現実を反映、昇華してはおらず、異化効果すらない。文学に触れることは、人生のとばくちのところで精神の冒険をすることであり、人と出会うことの喜びと恐れを知ることだと思うのだが、文学を読む人が減ってきている。一方、文学に問われるのは、単なるバーチャルな現実逃避ではなく、読むに足るリアリティーだ。人間の関係の中で民族主義的なもの、全体主義的なものを超えた、地上の生活空間を探りたいというのが自分の野心である。

●自分で見出す原点
どこかで、自分探しに突き当たったときに、情報網としてのネットワークに求めるのでなく、人間の原点に戻って探さなくてはいけないところにきていると思う。たとえば、漱石の『こゝろ』だ。
他人との関係の中で感動がない世の中。このような資本主義に自分は満足しない。資本主義、帝国主義は他民族を抑圧するシステムだが、ソ連型社会主義は失敗した。21世紀に問われるのは、階級意識一点張りのイデオロギーではなく、古典の読み直しであり、寛容な人間精神の発見・具現だと思う。
あなたには何が出来るか。政治的ではなく文化的な存在として、お互いの違いを認め合って助け合い尊敬し合えるか。その原点は自分で見つけるしかない。
今、私は、今までできなかったことをしようと努力している。きっと、自分によって産み出されるものがある、という希望を持って作品を書いている。書くことも人生の闘いなのだ。皆さんの健闘を祈りたい。




第15回必修講義

テーマ/「文学と人間」
講師/李 恢成 (芥川賞作家)
アドバイザー/猪狩 章(朝日ニュースターキャスター)
日時/2000年2月10日
会場/アカデミーヒルズ(アーク森ビル36階)


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