早稲田大学アークカレッジ開設記念講演
日本経済の現状分析と回復への処方せん
マクロの正義とミクロの正義

リチャード・クー
早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授
株式会社野村総合研究所 リサーチ・コンサルティング部門
経済研究所主席研究員

1999年4月20日、アカデミーヒルズで、早稲田大学アークカレッジ開設記念式典が開かれた。まず、早稲田大学の奥島孝康総長が挨拶に立ち、「『いかに難攻不落の城でも、時間は常に攻撃側の味方である』という言葉がある。戦後、早稲田大学は過去の栄光に頼り、守備にまわっていたという反省のもと、早稲田の学問のレベルを守るために攻撃に出る時であると決断した。早稲田アークカレッジはその象徴である。アジアの情報発信のハブを目指すアカデミーヒルズという場を得て、早稲田アークカレッジを開設できることは大変喜ばしく思う」と語った。
次いで、同大学常任理事の白井克彦氏から、「地球市民の育成を目指す」という早稲田アークカレッジのスローガンや「国際交流の場として、また、現実的な問題の解決策を産学協同で研究する場にしたい」という方向性が示された。
最後に、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授に就任し、今後の早稲田アークカレッジでの講義が予定されているリチャード・クー氏による記念講演が行われた。
ここではクー氏の記念講演「日本経済の現状分析」の要約のみ収録する。


●日本経済悪化の原因
日本経済はまだ厳しい状況にあり、楽観はできないが、この2 年間に政策的な対応は急速に進んだ。
日本経済の「病状」を構造問題として見る識者が多いが、構造問題はすでに1990年に発生しており、ここ2年間の急激な日本経済の悪化を構造問題だけで説明することは無理がある。
日本経済の病状について適切な処方せんを書くには、バブル崩壊から現在までの日本経済の病状と、それに対して打たれた治療(政策)について、冷静かつ正しく把握しておくことが不可欠である。
1997年からの急激な景気後退を引き起こした最初のつまずきは、同年4月にスタートした財政再建路線である。
財政再建はいわばダイエットである。ダイエットを行うには健康体であることが前提だが、当時の日本経済にはその体力はなかった。
たとえば日銀の公定歩合は0.5%。これは人類史上最低の金利である。これほどの「劇薬」を投入しても、日本経済という患者はピクリとも反応しないほどの重症であった。こんな時に、ダイエット(財政再建)を実行すること自体が無謀だったのだ。

●バランスシート調整
では、なぜ、史上最低の金利にもかかわらず、誰も金を借りようとしなかったのか。
それは、バブル崩壊によって株や不動産、ゴルフ会員権、絵画などの資産価値が暴落し、日本中の個人や法人のバランスシートが徹底的に壊されたからだ。その結果、誰もが自分の家計や財務内容を修復するために、負債減らしに必死になった。こんな時に金融機関から融資を受けて消費や投資に金を回すはずがない。
バランスシートを改善するという行動自体はミクロで見れば極めて正しい。しかし、全員がバランスシートの修復に走り、消費も投資もしなければ、経済が耐えられない事態になることは容易に想像がつく。
このように有効な資金需要が止まっている時には日銀の金融政策は効かない。こうした状態が「バランスシート・リセッション」である。
経済の教科書には「金利が下がれば景気がよくなる」と書かれているが、金利を下げても誰も借り手がいないような状況では景気はよくならない。「金をつぎ込めば景気がよくなる」という論理は、バランスシートの調整が終わるまでは通用しないのである。

●大恐慌寸前だった日本経済
ちなみに、バブルのピークであった89年第4四半期にはGDPの5%に相当する資金需要があった。しかし、90年に半減、93年以降はさらに減少していった。金融機関は貸し渋りどころか必死に融資先を探していたにもかかわらず、誰も金を借りなくなってしまったのだ。消費も投資もストップし、経済全体がどんどんシュリンクしていった。これが続けば最終段階は大恐慌である。
私は、日本が大恐慌に陥らなかったことこそ奇跡中の奇跡であると思う。これほど広範囲かつ大幅に資産価値が下落してバランスシート・リセッションに陥ったにもかかわらず、日本経済が大恐慌にならなかったのは、ひとえに財政が下支えしたからである。
しかし、多くの人々は財政政策に対して批判的だった。「こんなに金をつぎ込んで経済がよくならないのは、政策が誤っているためだ」と非難したが、実は財政政策を実施していなければ、日本は間違いなく大恐慌となっていただろう。

●1997年の2つの誤算
1997年以降の日本経済はほとんどの識者が予測しなかった方向へ進んだ。まず、日本政府は財政再建策として15兆円をカット。これに追い打ちをかけるように、株安、円安で金融機関が深刻な打撃を受けた。為替レートが円安にシフトしたため、日本の銀行の海外資産の評価額が相対的に膨らみ、自己資本比率をクリアできない銀行が続出した。大手21行だけでも約15兆円の資産圧縮が必要となり、金融機関の貸し渋りが始まった。
これに追い打ちをかけるように、日本政府は財政再建策として15兆円をカット。日本経済の体力が低下している時に、合計30兆円が市場から引き揚げられ、日本経済は徹底的に叩きのめされた。これらは山一証券や北海道拓殖銀行の破綻など大型倒産の前であり、今回の急激な景気後退を引き起こした主因である。
誤ったタイミングで打たれた財政再建政策と金融機関の貸し渋りが重なって、97年後半から日本経済は坂を転げ落ちるように悪化していった。
しかも、貸し渋りが個人や企業を直撃して2兆円減税が実施されたが、次の手が打たれるまで6カ月間もかかった。この財政政策の空白が景気後退に拍車をかけたのである。
深刻な事態に気づいた政府は98年6月に16兆円、同年10月に24兆円、合計40兆円を投入した。「真水」の部分が20兆円としても、これはGDPの4%に相当する額である。この財政政策はタイミングこそ遅れたが、決して誤りではなかった。これが、今、徐々に効き始めている。

●金融業界を変えた17兆円
一方、金融政策はどうか。
98年10月に貸し渋りが国民生活を直撃してわずか約4 カ月後に、政府は金融破綻を防ぐために30兆円の公的資金を入れた。この対応のスピードには、正直言って私は驚いた。ちなみに米国政府がS&Lの問題が発生し、RTC をつくってその解決に本腰を入れるまでに10年を要しているのである。
話を戻すと、30兆円のうち17兆円は預金保険に投入。これによってセーフティネットができた。これは金融機関にとって衝撃的な出来事であった。それまでは事実上預金保険は空っぽだった。もし、マスコミが騒ぎ立てたように、セーフティネットがない中で銀行が情報公開すれば、日本はパニックに陥っていたであろう。
逆に言えば、その状態では大蔵省としても銀行に情報公開を迫ることはできなかった。しかし、17兆円の投入で大蔵省と銀行の関係は正常化し、情報公開や銀行のリストラが可能になる土壌がつくられたのである。この17兆円は日本の金融業界を根底から変えるものであり、有意義な政策である。

●銀行救済は正しいか
残りの13兆円は銀行の救済、つまり、銀行の自己資本強化に使われることになった。すべての銀行を対象に政府が銀行の資本強化をすることが報道されるや否や、日本は全世界から叩かれた。
特に米国は「悪い銀行を潰し、よい銀行を生き残らせるべき時に、日本はまた護送船団方式をとるとは何事か」という強い批判を浴びせた。国内の世論も猛反発した。その結果、用意した13兆円のうち1.8兆円しか投入できなかった。
私は13兆円の投入は正しいと考えていたから、この結果は非常に残念だった。なぜ、政府が銀行の自己資本強化に公的資金を入れるべきかと言えば、日本ではすべての銀行が自己資本比率の問題を抱えていたからだ。もし、米国の言うように経営状態が悪い銀行を潰した場合、日本には潰れた銀行の債権を引き受ける体力のある銀行がない。そのため、健全な借り手まで大変な打撃を被り、日本経済はガタガタになる。これは北海道拓殖銀行の破綻と、その後の北海道経済の混乱と低迷が示す通りである。
このように、すべての銀行が問題を抱えるというシステミックリスクが発生している場合は、米国方式の悪い銀行を整理する手法をとることはできなかったわけである。日本特有の事情にやっと気づいた米国政府は、最近では手の平を返すように金融への公的資金投入を日本政府に促している。

●ミクロの正義とマクロの正義
国内でもこうした状況に気づいて、98年10月には60兆円の金融対策が決まった。
40兆円の景気対策と60兆円の金融対策が出揃って、日本経済は最悪期を脱した。ただ、懸念材料も残る。
当初60兆円の金融対策が通った際の国民との合意は貸し渋りの防止だったが、現在の論点は銀行のリストラにシフトしていることだ。原則的に貸し渋りを防ぐためには銀行のバランスシートは大きくならざるを得ない。しかし、リストラは銀行のバランスシートを縮小することである。つまり、これらは相矛盾するものであり、同時に行えばどちらの目的も達成できない。
まず、今、やるべきことは貸し渋り対策である。しかし、日本人にとって銀行叩きは「国民的スポーツ」と化しており、銀行のリストラが「正義」として世論に支持されている。この正義はミクロの正義であり、すべての銀行がリストラに走れば、また「合成の誤謬」が発生してしまう。マクロの正義からものを見る人がいないと大きく方向性を誤る。
特に日本のようなコンセンサス社会では皆が同じ方向に走りやすい。合成の誤謬を発生させないためには、せめてその枠外にある政府が、一歩離れた冷静な目で政策を打っていくことが重要である。これが日本経済に対する唯一の不安である。
システミックな問題の場合は、マクロの正義がどこにあるかを考えることが重要だということを強調したい。
日本経済という患者は、例えて言うならば糖尿病(構造問題)に加えて、ここ2年間は肺炎(バランスシートの崩壊)を患っている。
まず、金融政策と財政政策によって緊急の課題である肺炎(バランスシートの崩壊)を治し、体力の回復を待って糖尿病(構造問題)を治療するのが妥当な処方せんである。
治療の道筋が示され、それによって回復できると皆が認識すれば、日本経済は健康を取り戻すことができる。バランスシートの調整が終わるまでは財政政策や貸し渋り対策は続ける、そしてバランスシート調整がほぼ終了した段階で財政再建などの構造問題に着手するといった手順を示し、不安を解消することが重要である。